私が付属高校に入ったのは45年前。その後5年間の海外留学と修行時代を除けば、いつも武蔵工業大学にいたことになる。校名は変わったがこのキャンパスから全く出ていない。定年まであと5年。半世紀をこの場で過ごすことになった。如学会という組織を知ったのは大学三年生の時。「学生如学会というものを作るので、会長をやりなさい。」と言われた。その時は大した活動もせず、その後も何の貢献もせず60歳を迎えたのが今年の2024年2月である。
ある日突然かつて如学会会長を務められていた山岡さんからお電話を頂いた。「決まったので会長やってください。」晴天の霹靂。「そういう人格ではないし、時間もないので。。」と、ひたすら固辞したが寄り切られてしまった。
付属高校生には下駄というものがあり、外からの受験生よりは簡単に入れてもらえる仕組みがある。それを活用させて頂いた。外から堂々と入ってきた受験生には少々引け目がある。大学時代は色々な節目でお金を頂いた。結構助かった。ペンシルバニア大学留学は、先生方のかなり誇張した推薦状が効いた。留学しなさいと言ったのは新居先生。先生方の推しがなければ留学していない。大学の教員の就任も自分で希望した訳ではない。ある日鈴木先生から「教える気はあるか?」というダミ声の電話が始まりである。28年前のことである。
今年の2月に手塚研究室OBが還暦パーティーを開いてくれた。子供も含め出席者240名。結婚式でもないのに、大きな青いケーキが出てきて入刀式をした。ちなみに私のテーマカラーは奇しくも東京都市大学と同じ青。よってちゃんちゃんこも赤ではなく青。
私はこの半世紀一度も人生を決めていない。ふと気がつくと、その全ての節目に居たのは、武蔵工業大学と東京都市大学の卒業生であった。釈迦の手のひらのようにどこまでも広がっていて逃げることができない。過去の会長職の方々を振り返ってみると、この私は貫目が足りない。しかしここまでお世話になると逃げるに逃げられない。取り敢えずできる限りやってみようと思います。