学生の設計は全て嘘である。よって大学教授は四六時中、学生に上手な嘘のつき方を教えていることになる。建築は「とりあえず練習で作ってみよう。」ということができない。それは建築が大きいということもあるし、高価であるということもある。医学部の場合は、教授の手術の様を覗き見させてもらうことができる。人の数だけ患者はいるからである。医学部と似ているところもある。しかし、学生に「とりあえずお腹切ってみようか?」と教授が言い出したら迷惑である。建築現場はそうそうどこにでも転がっていない。教授の作品を見学できる機会はあっても、それは建設過程の一瞬であって、現場にずっと立ち会うことはできない。加えて、現場をそこらじゅうに抱えている教授はレア物である。日本の大学教授の給料は安い。常勤の教授は書類や会議に追われる。ビジネスで成功している建築家はなかなか常勤の教授に成りたがらない。設計系の教授になるのは、社会貢献や研究欲に目覚めている志の高い作家であるか、これから名を上げようとする若手建築家である。だから、どこの大学の建築学科も優秀な建築家を教授とすべく探し回っている。
私は縁あって常勤教授となったが、それは偶然の出来事に過ぎない。私の場合は拉致された。当時の大学の教授から、「教員になる気はあるか。」と電話がかかってきた。当時私はロンドンから第一作の副島病院の現場に取り組んでいる最中。現場が終わったら、ロンドンの師匠リチャード・ロジャースの元へ戻ることを考えていた。「受けます。」とは答えたが、実は常勤と考えていなかった。それがいつの間にやら常勤の話になり、書類が整えられて教員となった。振り返ってみれば、30年近く研究室を持っている。多くの学生を育てる機会を得た私は幸せ者だと思う。
それではどういう嘘を教えるのか?嘘は想定である。「もし?」ifという設定から全ては始まる。設定は必ずしも客観的である必要はない。私は円グラフや折線グラフのプレゼンテーションが大嫌いである。調査データをつまみ食いして、客観的であるかのようなフリをするプレゼンテーションは不誠実でさえある。人を騙すからである。時折アンケートをまとめて結論を導く手法を見かける。しかしその当の本人が自分自身に騙されていることに気がついていない。このような危険な不誠実は現実世界にも起きている。「公園に遊具があった方が良いかどうか答えてください。」というアンケートを出したコンサルタントがいた。結果はもちろん「遊具があった方が良い。」と出た。しかしその質問自体にバイアスという毒が含まれている。「公園には遊具がある。」というバイアスである。本当は「自然な起伏を生かした広場が良いか?遊具が並ぶ公園が良いか?」という選択肢であるはずであった。人を騙す嘘はいけない。例えば映画スターウォーズの世界は誰も現実とは思わない。その一方で、次期首相候補がが賄賂を受け取っているかのような嘘のドキュメンタリーを作れば、人を騙すことになる。最もらしくアンケートをまとめた結論はこの不誠実にあたる。
大半の人々は「何が正しいか?」ということを肌身で感じている。これをサイレントマジョリティー(静かな大多数)と呼ぶ。この幸せに気がつく嗅覚が大切である。メディアに騙されるのではなく、人としてあるべく当然の感覚。それが設計者には大切である。それをうまく捕まえられると素晴らしいコンセプトになる。嘘であるということは、現存していないということである。その嘘が「素晴らしい嘘」であるとの支持を人々から得るとき、嘘は市民権を獲得し水面に浮上し夢という華を咲かせる。不確実な情報への興味は創造への鍵であり希望でもある。ふじようちえん、チャイルドケモハウス、きぼうの街のコンセプトはそこから生まれた。



(3枚の鉛筆画は筆者の卒業設計。)

(線画は新居千秋先生の事務所で、学生バイトとして取り組んだコンペのイメージパース。好き勝手やらしてもらい楽しかった。)

