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志と欲望。「やすらぎ」

2025/5/26

志と欲望の違いについて聞いた。場所は北九州東八幡。「やすらぎ」という名の飲み屋さん。コラーゲンたっぷりの豚足が柔らかい。話りはこの地で抱樸をリードする奥田友志牧師である。

志とは人の寿命を超えて引き継がれるもの。欲望とは自分限りのものであるという。牧師の言わんとしたことは、「希望のまち」プロジェクトのために作った借金は、私が生きている間に返しきれない。「だからその後の借金は皆さんよろしくなんとかしてね。」というジョークであった。「ジョークはいいけど、ちゃんと希望のまちが完成するまで生きててくださいね。」というと、「私はジョークを言わない。」とつぶらな瞳で嘘をつく牧師。この奥田牧師のジョークは悲喜交々。あまりにもシリアスで、ここには書けないような話を、人生劇として笑い飛ばす。大変な才能である。同じことを私が言うと失言になってしまい大炎上必至である。奥田牧師の話は脱線を繰り返す。これは礼拝の説教も同じで聖書という線路からはみ出してしまう。ついにグーグルマップのコメント欄には「聖書に書かれていないこと言う牧師」というコメントが最低評価の星と共に昇るという快挙まで成し遂げてしまった。ちなみに誤解を避けるために付け加えるが、牧師は「健康診断ではオールA。」であったそうである。奥さんによれば「多少の誇張がある。」とのことであるが。

志は無理な夢である。すでに存在していては志にならない。志は遠くに投げるもの。遠ければ遠いほど価値がある。時には、あるいは往々にして、その飛距離は人の命を超える。志というボールは遠くの茂みの中の排水溝にハマり、容易なことでは見つからない。だから多くの仲間の助けが必要である。この仲間が志を継ぐ者達である。その志が正しい場所に着地するかどうかは誰にもわからない。「多分いいんじゃないかな」という漠然とした希望だけがある。「多分大丈夫。きっと大丈夫。ちょっと覚悟はしとけ。」という、さだまさしの歌のような面白味を含んだ高揚感が濃厚である。声をかける奥田牧師も凄いが、この暴挙に付き合う抱樸のスタッフの方々は偉い。私もいつの間にやら巻き込まれつつ、その演歌の波に呑まれてしまった。モーゼは約束の地に到達することは出来ず志だけを残した。「コッチに行けば良いことがあるから。」という確証のない希望を灯して。石井さんという事務局のリーダーがいる。石井さんは大漢である。その大漢が背筋を伸ばし正座で高々とガラスコップに焼酎を掲げていた。武士である。いざとなるとこの人が腹を召すのであろうか。こう言う武士がいる限り、なんとかなるという気がする。「あなたがいる。私がいる。なんとかなる。」志とは引き継がれるものだと知った。最高の安酒場「やすらぎ」。また行こう。

奥田 知志  参照

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