妻が「何故オタクの旦那は浮気しないのか」と言われたという。津々浦々歴史上、建築家の浮気性は知られている。もちろん建築家という職能がもっぱらオスの仕事であった時代のことではあるが。ここで私がエラい奴だとも意気地なしだともいうつもりはない。要点はその後に続く妻の答えである。「ウチのは古いものが好きだから。」。自分もヴィンテージと言っているつもりなのだ。間違わないで欲しい。ここで「妻が歳をとっているから、それが気に入っている」と言い放つつもりはない。むしろ妻は平均から見て若々しいし、私より5年も下である。彼女は私のヴィンテージ趣味に引っ掛けて質問を茶化したつもりなのである。その話を友人の阿部仁史氏に話したら、「そんな事人に言っちゃいけないよ、」と嗜められた。由比が同席していないロスアンジェルスの街角に営むドイツ料理店。暗がりで、彼は低い声で囁いた。「ダメだよ。」。私が、「大丈夫、本人が面白がって、自分でネタを話したんだから。」というと、「いや、それでもまずい。」と黒々とした瞳を光らせて本気で心配してくれている。どうも通じない。すれ違いである。ひとしきり10分ほど議論をして説得するのは諦めた。彼はカッコいいテスラに乗っている。タッチスクリーンで指示すれば、勝手に運転してくれる。音も立てず忍者のように動く。その一方で私の車は底の抜けたブリキ缶。古くて黄色いシトロエン2CVである。テスラのような自動運転どころかブレーキもまともに効かない。床は錆びて抜けている。もうとっくに55万キロを超えている。「あれと、ユイちゃんをあのポンコツといっしょにしちゃいけないよ。」と叱ったつもりなのかもしれない。気がついた。そうか私はズレているのか。周りは相変わらずあんな車に乗っている私を、可哀想だとか変な奴だと思っているんではあるまいか。ちっとも不幸せではないのだが。シトロエン2CVのステアリングを握る時の私は、幸せな高揚感で満たされている。
私は変わらない価値が好きである。そこにヴィンテージの良さがある。専門家によればヴィンテージとアンティークは別物である。ヴィンテージとは手の届く過去に属する品の総称である。一方アンティークとは本人が生まれるよりも遥か昔の遺物まで含まれているという。例えばヴィクトリア時代の家具はヴィンテージである。一説によれば50年までがヴィンテージなのだそうであるが、そうなると60歳の私はアンティークになってしまう。私はホゾが緩んだ木家具ではない。まだまだ現役である。冗談ではない。よって「ヴィンテージというのは、自分の想い出の範囲にある夢の品」という定義をしている。ヴィンテージとは単に古いだけではない。当時の自分では手に入れられなかったドリームアイテムでなければならないのだ。執着心の成せる帰結かもしれない。今の品に比べれば途方もなく機能は劣るのだが、そんなことはどうでも良い。かつて恋した品だから。私の趣味とは言わないが、かつて松田聖子ファンだった男どもにとって、もうすぐ60歳の彼女は、今でも昔とかわらず、いや昔より輝いているのだ。そう松田聖子はヴィンテージなのだ。ファンには怒られそうだが、私にとってヴィンテージは最大の褒め言葉である。私がもう一つ好きなアイテムとして、1972年発売のパルサーという腕時計がある。諸説あるが、世界最初の量産型デジタル腕時計と言われている。そこで赤く輝く微かなLEDの数字を見ると、ゾクゾクする高揚感を抑えられなくなる。ハミルトンという会社が、スタンリーキューブリックに依頼されて、映画2001年宇宙の旅に登場する時計を作った。1960年代末期のことで、まだ技術が追いつかず、結局デジタルもどきしか作ることができなかった。その悔しさをバネに数年後に実現したデジタル時計である。最初のP1というモデルは不具合が多く、まだ動いている品はほとんど存在しない。当時は車が買える値段であったそうである。私が持っているのは、その次世代の一般人でも買える量産型P2である。レア物ではあるが、ロレックスと違って売っても大した価値はない。しかしそんなことはどうでもいい。そのフロンティアスピリッツに魅せられたのである。多分この時計は一生持っている。売ることはない。私もヴィンテージ。だから車もヴィンテージ。いつまでも古くなることない夢。いいじゃないですか。阿部さん心配しないで。