敢えて灯りと呼ぶ。つい最近に至るまで、殆どの日本の照明は自然光の代用品であったのではないだろうか。一つはダウンライトやデスクライトなどの機能的照明。もう一つは、俗にライトアップと称される演出照明である。それらを照度或いは輝度という尺度で測ることになっている。照度と言うのは「机の上がどれだけ明るいか?」といった機能的な尺度。それに対して輝度と言うのは、「壁や天井がどれだけ輝いて見えるか?」という印象の尺度になる。この二つを組み合わせて、現代のほとんどの照明手法はできあがっている。優秀な照明デザイナーであれば、いかに大きな空間であってもイメージを簡単に作り上げることができる。その一方で「灯り」という単語は幾許かの情緒を含んでいる。前段の照明が空間という物理的存在をテーマとするのに対して、「灯り」は空間の中で「出来事」に寄り添う。例えば和室に敷かれた布団の枕元に引き寄せられた行燈がそれである。布団に腹這いになって夜更かしの読書の手助けとなる。ディナテーブルの上に灯る蝋燭は照明でなく「灯り」である。蝋燭の灯りの機能は明らかに低い。揺れ動き続けて安定しない上に明るくもない。メニューを見ようとしても見えないので、携帯電話の懐中電灯機能を起動させなくてはならない。それでも高級レストランが蝋燭を灯すのは、蝋燭の方が照明より趣があるからである。初めて太平洋の横断飛行を成し遂げたリンドバークの伝記、the spirits of St. Louis は、「翼よ!あれが巴里の灯だ!」と訳されているている。訳者の脚色だと言われている。リンドバーグの原文には“The lamps of Paris”としか記されていない。しかしこの要点は、照明lightsとは言わずに灯と言ったことにある。夜景は「灯り」であって照明ではないのである。照明とは空間や物を照らす器具。それに対して、「灯り」とは人の営みである。私が長年仕事をお願いしている角館氏は語った。「夜景ってのは美しいよね。人は夜景を見るために、丘を登り飛行機の窓から街を見下ろす。そこで人が見ているのは夜景の光じゃないんだよ。その向こうにある人々の生活なんだよ。」建築を設計するとき私達は「建築の向こうに何を見るのか?」といつも問い続けている。その考えと角館氏の考えは同じである。建築は所詮箱に過ぎない。同様に、照明は器具に過ぎない。大切なことはその箱や物が何を為すのかということなのである。塚本由晴氏に言わせれば「振る舞い」であろう。照明は明るくすれば良いというわけではない。人や社会に何を引き起こすかと言うことが大切なのだ。人は街の灯りに命の瞬きを観る。灯りの向こうに人の営みを感じている。私達は電球のペンダント照明を使う。使い始めたのは前世紀の作品「八王子のコートヤードハウス」からである。今や電球照明は手塚建築のブランドの一部になり、若手建築家の作品にも頻繁に見かけるようになった。当時は裸電球をそのままぶら下げる建築家など存在しなかった。強いて言えば戦前のブルーノタウトの作品群が先駆であるが、それは遠い昔の話である。角館氏の「電球そのものを見せたい」という執拗な説得に負けて恐る恐る使った。その証拠に電球は裸電球ではあるが、少し大きめのボリュームの乳白色のボール球を使った。光源が目に直接入り痛いのではないかと心配したからである。その成功に自信をつけた角館氏は次の作品「屋根の家」で遂にクリア球使った。結果は劇的であった。ともかく美しい。谷の反対側から見ると、都市の夜景が一軒に凝集したように生き生きとしている。その時の角館氏の得意満面は今でも忘れられない。その家だけだけに命があるように、優しく力強く瞬いていた。灯りは昼の光の代用物ではない。夜には昼とは違う世界がある。茅ヶ崎でシオンキリスト教会を設計していた時のことである。設計当初は祭壇上のトップライトに照明を仕込むことを考えていた。昼間と同じところから光を入れて空間を演出するためである。その時に角館氏から「夜は暗くて良いんじゃない。」との発言があった。「ヴェネツィアのサンマルコ寺院。あれお金入れるとガチャンという音がして、天井のモザイクタイル画が明々とライトアップされるでしょ。あれ雰囲気台無しだよね。」確かにその通り。ライトアップされると空間の奥行きが消え、神秘が消え失せてしまう。これまた説得に負けて茅ヶ崎のシオンキリスト教会では低くレフランプを吊り下げることにした。空間を照らすのではなく、祈る人々を照らす。人を照らすのは灯りである。灯火「ともしび」と言っても良い。昼間は天の光で照らし、夜は人の営みが灯火となり、暗い天空へと光が消える。夜のフクラスは不揃いを旨とした。フクラスは街であって欲しかった。フクラスとは東急プラザ本店である。渋谷駅の西口を出た正面である。一見すると一人の建築家が手がけた作品とは思えない。実際のところその通りでもある。私のポジションはデザインアーキテクト。そもそも全体の設計は当初請け負っていなかった。最初受けたのはアーバンコアと言われる、エスカレーターが上下するアトリウム部分のみである。それが紆余曲折を経て、全体計画に口を出すことになった。口を出すことにという意味は、詳細設計を請け負っていないからである。建築家としては全部デザインしたいところであるが、そもそも詳細設計の依頼を受けていない。そこを曲げて「好きにさせてもらっているのであるから、ありがたいと思わなければいけない。」と自らに言い聞かせて頑張ったプロジェクトである。考えたのは一本の彫刻としての超高層ではなく街をつくろうという作戦である。街は不揃いであるところが面白い。賛否両論があるが、渋谷の魅力は不揃いの醸し出す多様性にある。よって渋谷「フクラス」では照明の色を揃えないことを主旨とした。言い換えれば「テナントの好きに任せる」ということである。いい加減な設計に見えるかもしれない。しかし意図的ないい加減である。フクラスでは孤高の高層ビルを避け都市を作ることを旨とした。よってデザインも階によってマチマチである。我々も全てをペンダントライトで解決しようとは思わない。多少の余興としてライトアップも大切である。LEDが普及して今までにないリニアな光源が可能になり、照明表現も多様化した。しかし我々の建物が出来事を主体とする作品群である限り、「街灯り」という概念が道標であり続けることに変わりはない。