珈琲LAWNに行った。芝生という意味だそうである。設計者は池田勝也。手塚由比の父親である。高橋靗一氏設計の一号店には芝生があった。ここ二号店は駅前の狭小地であるから芝生はない。四ツ谷の四ツ谷口から外堀を挟んですぐ向こう。1969年に建設された粗い溝が縦に穿かれたコンクリート壁が緩やかに曲面を描き洞窟へと誘う。独立への花向けとして高橋靗一氏が池田勝也に託した仕事だという。その後も師弟関係は続き、池田由比こと手塚由比は孫のように可愛がってもらったという。高橋靗一氏は池田由比が結婚して手塚に姓を変えてからも後見人として見守り続け、2016年に逝った。
ロンのオーナーは3代目となる。ロンはヴィンテージの極みである。アンティークではない。ヴィンテージとは手の届く過去の夢である。86歳の池田勝也は今でも黒髪を残し70代と言われても全く差し支えない壮健さを保っている。小さな作品であるが、なんと丹下健三の代々木体育館その他の歴史的名作に混じって東京の建築100に選ばれている。そのオーナーから食事の誘いがあった。池田勝也氏に加えてその娘の旧姓池田由比も招きたいという。「日曜日だけど、あなたも来る?」との誘いがあり、ついてゆくことになった。娘と息子も声をかけられている。当然のことながら、主役は池田勝也氏である。ギャラリーで何故か東京藝大の学生二人も膝を揃えて座っている。お二人は、年頃の息子が「ファッションがカッコいい。」と言わしめる程に着飾り、好奇の瞳を輝かせている。渦の中心の池田勝也は語り続ける。「堀口捨己先生のところで待庵の研究をしてね。分離派って知ってる?西欧を追従する風潮を批判して、日本の心をもう一度見直そうという運動だったんだよ。」なんか私が知っている分離派運動とはちょっと違うが、そんなことはどうでもいい。藝大の学生も意味深な顔持ちで拝聴している。ここの主役は池田勝也氏である。「この壁と天井の間の隙間が大切なんですよね。」とオーナーさんがさらに煽ると、「そうそう。これは茶室の取り合いなんだよ。待庵という利休が作った茶室があってね、そこで秀吉を説得しようとした場所だよ。」要は壁と天井を明確に切り分ける見切りのことである。「そうか待庵だったのか。」見切りがあるのは茶室だけではなかったようであるが、池田勝也ワールドは広がり続ける。トークに没入していると、四谷駅前の暗がりに昭和の美学が全て凝集してくる。ロンができたのは1969年。池田由比が生まれた年である。池田勝也氏のトークは続く。娘の池田由比は横目で「またやってる。」との眼差しを送りながら笑っている。親父をからかう愛情に溢れながらも滑稽さを伴う一幕である。孫二人は何話すわけでもない。私も言うことがない。「今日のパパは刺身のツマだからね。」「知らないの?ツマってのは刺身の横についてる大根。あれだよ。要は重要じゃないけど、横にいるのが大切。」「そうか。大切なのはジイジでそこに娘であるママがいる。」「ということはパパはツマのツマ?」「そうだね。そうなると君たちはツマのツマのツマじゃない?」2階に狭い回り階段を登る。薄暗い店の真ん中にはグランドキャニオンのような吹き抜けがある。グランドキャニオンより随分小さいが、そのくらいの誇張をしても今日は許される。池田由比の親孝行である。ブルータスもこの暗がりにナイフのように光が切り込んだ吹き抜けの写真を載せていた。「この螺旋階段の真ん中の柱は何で天井まで行かず途中で止まっているんですか?」とオーナーさんが質問を投げかける。オーナーさんとっておきの質問であると思う。86歳の池田勝也を持ち上げる機会を伺っている。池田勝也はそっけない。「ああそこは建物とは別だからね。」それで素人がわかるわけがない。そこで私は大学教授のしたり顔をしゃしゃり出て「この柱は構造とは関係ないんです。上を支えているわけじゃなくて階段の一部。本当は階段の手摺のとこで止めてもいい。それを天井近くまで延ばしたのは池田勝也氏のシャレ。」「ああこれはシャレですか。」とオーナーさん。しまった。助け舟を出したつもりが、要点がズレてシャレになってしまった。家具もなかなか良い。ルート66にあるダイナーのような毒々しい赤色の皮が張られている。ところがその色はオリジナルではないと言う。「修理の時に小さなサンプルを業者さんに見せられて選んだら、全然違うこんな色になっちゃって。どうしよう。ってなったんです。ほんとはもっと深い茶色だったんですけど。。。」しかしこれはこれで良い。そのくらいの風合いの起伏を飲み込むぐらいの懐がここにはある。見学会の後は、ひとしきり食事会があった。幸せなオーナーとの関係。三代。私達もこうありたい。珈琲LAWN