渋谷は面白くあって欲しい。先日「フクラス(東急プラザ渋谷)にLEDスクリーンを取り付けていいですか?」という相談があった。「どうぞ大いにやってください。」と答えた。担当した建築家としては、相談に来て頂けるのがとても嬉しい。しかし聞きに来てくださるということは、多分「LEDスクリーンのような下世話な物体はけしからん。」という見解が世間にはあるからである。
渋谷に関しては世代間の意識に距離がある。かつて渋谷には、「東急デパート本店やBunkamuraを敢えて駅から離し、坂道をそぞろ歩く界隈を作らん。」という深い思慮があった。その文化村通りには象徴的な109のタワーが聳え、TOHO シネマが開いた。その入り口としてスクランブルスクエアも栄えた。スクランブルスクエアの賑わいを演出したのは浜野安宏氏である。東急ハンズも敢えて遠くにすえ、宇田川通りから井の頭通りに至る賑わいが生まれた。道玄坂には文化人が集まるカフェもできた。道玄坂の先には格調高い松濤地区があり、そぞろ歩くと代官山の文化ゾーンへと至る。
しかし現実社会には光と影がある。都市の様相は綺麗事だけではない。都市はグレるのである。真っ黒に顔を塗りたくるガングロギャルが現れた。怪しげな客引きも徘徊する。これを愛すべきか?それとも忌むべきか?私は全てが命の瞬きであると思う。世の中は綺麗事だけでは成立しない。
建築家が設計した美しい建物だけが並ぶ世界は虚構。ガタカというSF映画がある。レトロな印象とは裏腹に、1997年という意外なほどに近年の作品である。意外な程にというのは1977年に登場したスターウォーズから既に20年を経ている。レトロな印象を与える理由は背景にある。フランク・ロイド・ライト設計のマリン郡庁舎やミース・ファン・デル・ローエデザインの家具シェーズロングが登場する。1950年代の未来感覚である。映画はエリートだけが存在する特別な社会を描いている。明らかに我々が知る未来社会のイメージとはズレている。そこに生まれる虚無感が映画のテーマとマッチしている。現実社会ではオスカー・ニーマイアのブラジリアがそれに近い。
渋谷のフクラスの設計を引き受けるにあたっては葛藤があった。建築家としてはガタカの中の世界のように、美しく純粋なイメージを作りたい。しかし人々を惹き付けて止まない渋谷は対極にある。洗練された最先端技術が退廃した地上社会と対比を成すブレードランナーの世界である。ブレードランナーのリリースは1982年である。その未来感覚は現代の渋谷と極めて近い。映画の中では、経済格差がスラム街を産み、富める者は高層ビルの上から都市を見下ろす。渋谷では押し寄せるインバウンドがスクランブル交差点を埋め、外国語が入り乱れる。超高層ビルにはゲイシャの美しくも奇怪なイメージが投影される。
渋谷には過去から未来まであらゆる時代が消えることなく折り重なって存在している。渋谷は宇田川と渋谷の落合である。地下に埋められた川は亡霊と化しながら、街路の賑わいを操る。センター街やキャットストリートはその墓標である。人々はノスタルジーとフューチャーの両方を見出し愉しみを得る。2011年の我々は仕事を受けた。結果として当初恐れていた通り、洗練された建築家の作品にはならなかった。しかし後悔はしていない。街ができたからである。
私達は渋谷を愛している。2011年に仕事をうけて以来既に14年間渋谷の祭りに参加している。私は神輿を担ぐ。娘はもはや笛太鼓の名手である。神輿の後には、酒場「千両」で親しい仲間達と一時。フクラスの足元は路面店が開き賑わっている。屋上には空中都市と森が出来た。18階の円盤テラスの上で極上のワインを味わいながら、スクランブル交差点を見下ろす。全部入りの街である。









