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西芳寺研究 「調律と閃きの庭」

2025/6/10

西芳寺の庭は「調律と閃きの庭」であるという。日本語における調律は主に音楽における音程を調和させる所業を指す。聴覚は五感における嗅覚、視覚、味覚、触覚とは一歩離れ、極めて数値化されやすい特徴を備えている。耳骨が介し前頭葉に電気信号で送り込まれるにせよ、骨伝導で脳幹からドーパミンとして放出されるにせよ、所詮音は音圧の変化に依存する一次元信号に過ぎない。数学的に言い換えれば、残りの四感が非線形な不確定度合いが高い多様性に依拠するのに対して、聴覚は線形で定量化し易い特徴を持つ。時間の変化に依拠する一次元の信号である。故に原初的な数学でも解釈しやすく、自然科学の入り口として、ギリシャ時代のピタゴラス音律から近世のバッハ平均律に至るまで、人の知性を導き続けてきた。

西芳寺の庭には山河がある。庭における山河といえば枯山水が嚆矢であろうが、西芳寺のそれは当初に夢窓疎石が築いた意図を自然が飲み込み消化し尽くしてしまっている。枯山水と解釈するには時の為した出来事の含みが多すぎる。風雨が大地を削り山河を描くように、この小さな敷地に時が肆するままに造形を尽くしてしまった。この苔庭に万民が惹かれるのは、枯山水という形式を超えて、天空に登り日本国を俯瞰するかのような高揚感を得られるからであろう。この庭を調律したのは人ではなく時である。訪問者はその時に流れる振動を感じ、身を場に委ねるのである。

西芳寺の庭は調律されていない。自らを調律する場である。自然界には無数の音律が含まれている。西芳寺の庭に心身を委ね、自らが共鳴する響きを見つけ、心の調和を計るのであろうと思う。庭は何もしてくれない。自らを投射しなければ、苔は単なる細胞であり、石は無機物に過ぎない。自然界で定理を人類が探索を続けるように、その小さな森林に分け入り、自らの立位を見出す時、答えてくれる木霊が棲んでいる。閃きは与えられるものではない。森羅万象の共生の巨大さに圧倒されつつも傾倒し、内なるものとして解釈を進める時、漸く与えられるささやかな報酬である。

西芳寺が示す共生は未来への示唆である。今世の中は欲望に満ちている。欲望の対局として志がある。欲望とは個人に属し、その人の命が絶えると蝋燭の灯火のようにきえる。欲望の火は止まることを知らず、周りを焼き尽くす。欲望と欲望がぶつかる時、奪い合いが起き戦乱が起こる。戦乱の後に残るのは虚しい瓦礫だけである。志とは人生を超えて引き継がれることであると思う。志と志はぶつからず重なり合い世代を超えて引き継がれる。志は重なることでより強くなる。西芳寺は水によってつながっている。その場にある苔や木々はその水を奪い合うのではなく、分かち合い蓄え命そのものとして取り込んでいる。西芳寺の水は液体という物質の役を超え、大いなる生命体を司る。西芳寺の庭を分析すれば科学があり、観察すれば世界がある。凝視から俯瞰まで無段階の倍率がある。バッハが目指した調に依存しない構造である。

文責は手塚貴晴

https://www.youtube.com/shorts/ddSFkSpgVhY

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