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ふじようちえん その2 二人が同意せずにどうして世界に同意してもらえるのか?

2023/5/8

夫婦で仕事をしていると「どうして一緒に仕事ができるんだ」という呆れと驚きを入り交ぜた質問をされる。その時私は「言うことに従えばいいんですよ。」complyと茶化すことにしている。これは講演会を盛り上げるためであって真実ではない。「二人は喧嘩しないのか?」と聞かれる。我々を見る時、一緒に仕事をする夫婦建築家にとってはこれが最大の関心事らしい。なるほど久しぶりに海外のカップル建築家に会うと、離婚していたり組合せが変わっていたり実に騒がしい。しかしここで語るのは我々の仲が良いかどうかという週刊誌のようなゴシップネタではない。我々も喧嘩をする。私のパートナーの由比はもと剣道部のキャプテンで時々キックボクシングも練習していたと言うから、物理的に戦うことは得策でない。もっぱら口喧嘩である。もはや大きく育った子供達が仲裁に入ろうとすることもある。無謀であり無意味でもある。我々はもはや30年以上一緒にいるのだ。引き際を心得ている。ただし仕事のデザインのことで喧嘩したことはない。我々にとってデザインとはどちらかの依怗を通すかというせめぎ合いではなく、どちらの主張の方に理があるのかという議論であるからである。「二人がわからずして、どうして他の人たちがわかってくれるのか?」夫婦喧嘩は犬も喰わないが、デザイン上の議論には価値があるのである。幾度も書くが、建築の基本はシェアすることである。建築は自分の為に作るものではない。だからなぜそのデザインが良いのかどうかという議論がとても大切になる。ここがいわゆる芸術という大きなカテゴリーと建築との違いである。倫理、経済性、芸術性、時代性。無数の絡み合う要素が判断材料となる。無私になればいいというわけでは無い。何事も私という不思議な支離滅裂な思い付きから未来は生まれるのである。だからと言って言われた通り作るのであれば我々はいらない。

「ふじようちえん」という仕事の最初のプレゼンテーションを今でも鮮明に覚えている。自宅には長さ4メートル重量300キロの大きなテーブルがある。寿司屋のカウンターのようなものである。このカウンターが佐藤可士和氏のサムライの建物のコンセプトの元になったのは後の話。客はふじようちえんの園長夫妻と佐藤可士和氏である。正確に言えば佐藤可士和氏は我々の側であるから、客とは言えないかもしれないが。テーブルの上に載っているのは50個程の模型である。

我々はいつも沢山の模型を作る。模型は一つとして同じものがない。その中には馬鹿げた案もある。目的はインスピレーションを得ることにある。しかし元となった案は電車で揺られているときに降ってきた。立川から新宿へと向かう中央線。武蔵小金井のあたりである。小さな紙にスケッチを書いて、事務所に帰着するなり模型を一人作り始めた。なぜという理由もなくこの案が良いという確信があった。スチレンペーパーの上にペンテルのサインペンで形を描き急いでカッターで切り出した。イメージが抜けるのが怖くて指が震えた。

テーブルのには50程の模型を並べた。しかし本番の模型は隠したままである。「これがいいと思う。」と一つの模型を選んだのは、佐藤可士和氏であったのか園長先生夫妻であったのか覚えていない。「正解であった。」私達が選んだものも今できている楕円形の園舎であった。

建築の世界の外の人たちには理解し難いかもしれないが、点数をつけているわけでもないのに、「これが最も良い」という選択は存在するのだ。アイデアがシェアされた瞬間であった。

( 写真は2006年のギャラリー間 )

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