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ふじようちえん その4 円相

2023/5/8

我々はふじようちえんのコンセプトを円相になぞらえてしばしば説明する。実のところ円相の概念は後付けである。確か始まりは中国から訪れた風水師の方だったと思う。「この建物は風水を熟知した人が設計したはずである。楕円から四方に抜けている方向も完全である。」もちろん我々に風水などわかるはずもない。偶然である。そうこうするうちに「これは円相である。」と解釈する僧も現れた。それを残してくださった方々を特定することはできないのが残念である。我々の思想は受け売りでできている。その受け売りがより集まっていつの間にやら思想になってしまった。

ふじようちえんの中心には何もない。何もないことこそが本質である。これはドーナツの成り立ちと似ている。ドーナツの形態には意味がある。火を通りやすくするためである。だから中心に穴がある。何もない部分がドーナツの本質を決めている。ドーナツの本質は食べられない。穴には何もないからである。ドーナツには中心がない。同様にふじようちえんには中心がない。輪である。その概念はキャンプファイヤーの輪と似ている。キャンプファイヤーの中心には火があるから人はいない。輪には始まりも終わりもない。だから輪の上の人々は平等である。中心がないことは大切である。中心がない輪の上の点は互いをインターラクティブに繋げることができる。楕円を描き、その中をあやとりのようにつなげてみてほしい。

ふじようちえんの柱配置はランダムである。中心から放射状の軸線である法線上に柱を並べるのが丸い建築を作る時の定石である。しかしふじようちえんの楕円は微妙に歪んでいる。中心はない。柱の配置は既存樹木と子供の集まる輪を描きながら決めた。建築が生活を決めるのではなく、生活が建築を決める順番である。

ふじようちえんには園長室がない。その代わりに入り口側の角に園長の机がある。旧来の学校であれば守衛室があるような場所である。園長は守衛ではない。子供達を受け入れる開かれた扉である。机の前にはザリガニ、ドジョウ、不思議な品々が並んでいる。まるで縁日の夜店である。ここからは全ての部屋が見渡せる。しかしここは中心ではない。園児のいる場所と同じく輪の上である。互いに見る見られる、聞く聞こえる、の限りなく平等で賑やかな出来事が起こっている。

講演会をすると時折「ジェレミーベンサムのパノプティコンという建築を意識したことはあるか?」と聞かれることがある。その概念とふじようちえんは真逆である。パノプティコンとはinternationalの概念を創造したジェレミーベンサムが構想した監獄のプロトタイプである。最大多数個人の最大幸福the greatest happiness of the greatest numberという概念を造った思想家である。一見すると現代の民主主義と近いようでそうではない。民主主義という概念が生まれるより前の思想である。彼の思想には中心がある。最大多数個人の最大幸福が何であるかということを考えるのは一人のリーダーである。トマスカーライルの家父長的国家論につながってゆく。後のカールマルクスはそのスピンオフであり社会主義へと繋がってゆく。要は皆の幸せを考える賢者が真ん中に座り、皆の幸せを考えるという思想である。一神教一元的な概念である。パノプティコンには中心がある。看守が囚人の幸福を考えるという概念である。言うまでもなく、監獄は排他的な概念である。その一方で中心の人物が正しいと考える限り幸福は保障される。繰り返すがふじようちえんの楕円とは真逆である。ふじようちえんの概念に最も近い歴史的な事物は中国福建省にある客家土楼であろう。

「土楼内部の空間と宗族組織との不完全な 対応関係>建造した土楼において、土楼内部の空間の 所有形態と親族組織がきれいな対応を見せているの ではなく、不完全な対応関係をみせる。発表者はこの 不完全さこそが土楼を維持するために重要な要素で あると考える。」(「客家土楼から宗族を再考する」小林宏至(日本学術振興会)参照)

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