Nature doesn’t need us. We need nature. 自然は我々を必要としていない。我々は自然を必要としている。自然保護が倫理であるかのように語られている。「地球を守ろう。」「森を守ろう。」「動物を守ろう。」これらのスローガンは一見すると正しいように聞こえるが偽善を含んでいる。他人事なのである。人は生物の王ではない。ましてや神ではない。実は我々は自然に属している。自然保護は倫理ではなく、人類の生き残り策である。
今ブラジルのコーヒー農園に来ている。アグリフォレストリという手法を試す農家である。19世紀初頭から続く農家である。日本人の入植よりはるかに古い。その子孫が新しい方向を模索している。日本語では自然農法という用語が知られている。この領域には福岡正信という巨人がいる。「わら一本の革命」という名著がある。平たく説明すれば、動植物の共生叢を作り上げ、持続可能な農法をせんとする示唆である。田畑に木を植え、農薬や化学肥料を使わず、影を作り土を育てる。生命力豊かな土地に育った作物は味わい深く健康である。自然農法の土地は痩せることがなく、世代を超えて豊かな恵みをもたらす。農家は化学薬品の害を恐れつつ防護服を被り作業する必要がない。半世紀を経てこの示唆は海を超え、ユーラシア大陸を横断。振り返ってアメリカ大陸の南まで伝播している。ここで気がついたのは、この自然農法の伝道者は福岡正信だけではないという事である。前世紀より多くの日本人がブラジルへと渡り、アマゾンのジャングルを切り開いた。その開発の過程で、木々と共生しながら土地を肥沃にするという手法を編み出して来た。狭い土地を肥を撒きながら人海戦術で米を作り上げて来た日本と違い、巨大なブラジルでは自然の力を借りざるを得ない。自然農法は必須の生活の知恵であったと言っても良い。
アマゾンの森林破壊が問題となっている。ここに偽善が生じている。森林破壊の罪をブラジル人だけに負わせてはならない。同様の自然破壊という殺戮をし尽くしてきた先進国も同罪である。ブラジル人を非難しても、ユーラシア大陸や北アメリカを覆っていた大森林は戻ってこない。森林を食い尽くしてきた人類が収奪ではなく共生の道を探らなければ未来はない。耕作地や田園の風景は美しいが、その風景は人が自然を収奪した爪痕でもある。既に農耕地として開発された土地から人を追い出す事は難しい。これは倫理だけではなく、我々の生存の問題でもある。我々は農作物を食べて生きている。世界中の農家を土地から追い出してジャングルに戻す事は難しいが、農耕地に森を重ねる事はできる。収奪から共生への切り替えである。