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トンカツ

2025/5/13

トンカツと本気で付き合い出したのはもう30年以上前のことになる。とんかつ専門店の丸栄という小店が自由が丘にあった。実は今でも同じ場所にあるが、「ある」といわないのには理由がある。念のため付け加えるが、味が落ちたという訳ではない。ふらりとある日暖簾を潜るとそのカウンターはあった。店の中は飾り気ないという程度を通り越して、何もしていない。棚やカウンターは古びた焦茶色で、食材はダンボールにどどんと突っ込んである。カウンターではモクモクと客が箸を動かしている。目も合わせない。「これは行くべきではないところに遭遇したかな」というぐらい気まずい。ふとカウンターを見ると「携帯電話禁止」の張り紙がある。それも一席ずつ。確か書いてはいなかったと思うが、私語禁止という不文律の空気があった。カウンターを見ると親父さんがフライパンで一枚ずつトンカツを目もくれず揚げている。目もくれずと言うのは、穴が開くほどにフライパンを見つめているからである。目からレーザー光線が出ている。カウンターの中、その右手前では50ぐらいの女性が慣れた手つきで煙草を燻らせている。優雅である。その右側では女の子が低い椅子に座って、目から上だけをカウンターから出してテレビを見ている。トンカツが上がると、そのタバコの女性がキャベツを乗せてカウンターに出してくれる。すると目だけ出していた女の子がスイッチが入ったかのようにスックと立ち上がり味噌汁を注いでくれる。全て無言である。どうぞ、とも言わない。こちらも気圧されて、恐縮しながら、カウンターに皿と味噌汁を下ろす。箸を手に取りトンカツを口へと運ぶ。ウマイ!断面がピンクを僅かに含んだ黄土色。ミディアムレア。あまりに美味くて、しばらく通った。何年も。。。ところがある日突然張り紙が。。。「店主急逝によりしばらく休業します。」なんと。困った。その後幾つかの有名店を巡ったがどうしても納得できない。結局凝り性の手塚は、トンカツの研究を始めた。これから紹介する手法は、その後何年もかけた研究開発の成果である。

トンカツの奥義は簡単で、結局温度とタイミングである。180度で1分。3分寝かしもう一度180度で1分。その後余熱が通るのを3分ほど待って出す。簡単なようだが、10秒間違えると全くダメ。肉の大きさは一辺3センチの乱切り。ヒレがいい。油は米油がいい。プロはラードを使うが、家庭で処理するには手がかるし、味としても重すぎる。この通り正確に執行すれば、サクサクでふわふわのトンカツが出来上がる。

ちなみにとんかつ丸栄に関しては後日談がある。ある日ふらりと前を通ると、シャッターが開いている。まさか店主があの世から舞い戻った訳ではあるまい。恐る恐る暖簾を潜ると、なんとあの女の子の女将になって、その旦那がトンカツを揚げている。店は綺麗な艶艶のピンク色。清潔である。何より愛想が良い。かつての緊張感は全くない。その当初はかつての味と程遠かったが、それから10年以上を得た今は、かつての親父さんに負けず劣らずの味に達している。しかし、名店は今や丸栄だけではない。今や我が家も負けてはいないのである。

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