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和風

2022/5/23

近年和風が好きになった。20年前程昔、和風建築の設計を頼まれて断ったことがあった。愚かである。新進気鋭の建築家として突っ張っていた時期のことである。和風を一種の様式と捉え、様式に囚われるのは作家らしくないとさえ思っていた若造であった。その一方で常に古き手塚商店を愛する私があった。手塚商店とは父親の実家で、数えて十二第目となる従兄弟の手塚英樹が守っている旧家である。かつては東インド会社相手に貿易をしていた。1926年フィラデルフィア万国博覧会の最高大賞、1930年リエージュ国際博覧会 グランプリなども受けている。有田にある間口九間の巨大な町屋である。道路拡張の憂き目に遭い多少中庭が縮んでいるが、ほぼ原型を保っている。夏になるとこの家に行くことを愉しみにしていた。中庭を挟みつつ廊下が延々と続いていて、角を巡るたびに新たな情景が現れて飽きることがない。世の中の田舎家とはそんなものだと勘違いしていた。親のようなものである。身近にあるとそれを超えたくなる。良さを知れば知るほど反発したくなる。そういう存在であった。それがある時から自らの原点であると認めるようになった。歳を重ねるほどに、若い頃に見えなかった凄みが見えるようになった。顕微鏡を覗くように、目を引き寄せると複雑な臓器がめくるめく現れ出て飽きることがない。事務所の経営が安定するようになって後学の為にと様々な宿を泊まり歩くようになったが、手塚商店のしつらえに慣れた目に叶う宿屋がほぼ無い。ほぼというのは、京都には柊屋という極上の部屋を持つ名旅館があるからである。しかしながら増築や改装を重ねていて全てが元のままでは無い。当然である。昔のままでは宿屋として機能しない。
我々の近作に和風が増えてきた。それを見て、これは寝殿造りであるとか、これは書院造りであるとかの評を頂く。実に恐れ多い。私にとって和風とは様式で無い。というより、造りというものが理解できていない。理解しようともしていない。様式とは後々の博学な教授たちが作り上げる定義であって、作り上げた匠達にとっては、走馬灯のように移ろう世相の中で、目の前の課題を解いた結末に過ぎないと思うのである。よって、この違い棚は間違っているとか、敷居の順位が逆であるとか、この天井はこの部屋に相応しくないと叱られても答えようが無い。そういった慣わしの観点から言えば私は落第生である。
和風は様式でない。様式とは和様、大仏様といった形式に見られる由緒である。それに対し、和風というのは、日本のモンスーン気候の風土に住まうための知恵であるようにおもう。和風は作りやすい。雨の音に耳を傾け、肌を撫ぜる風を感じ、木の声を聴いていると自然と答えが出てくる。その時には、作家性という永らく我々を囚えていた煩悩は霧散し、ただ建築という職能に向かう昔ながらの工匠の背中が霧の中に浮かび出でる。和風とは軒と構造にあると思う。
深い軒。これさえあれば大概の日本の気候風土は、煮込まれた根菜のように野趣を抑え柔らかくほぐれ、人の用に応えてくれる。雨端と書いてアマハジと読む。沖縄の由来であるそうである。雨端とは沖縄の伝統様式に見られる、中でも外でもない軒下の中間領域のことを示す。明確な玄関が存在しない民家では接客の空間であったという。この概念は沖縄特有であるかのように記されているが、本土四島でも同様であるようにおもう。「軒を貸して母屋を盗られるという」格言がある。これはかつて軒に人を貸すという慣わしが和の文化にあったからである。その慣わしがなければそこに由来する格言も生まれない。軒は和に住う民の共通認識であったのである。それが近年軒がない建物が増えた。ゆえに古来の軒のあるあたりまえの建物を和風と呼ぶようになったということである。

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