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壁のないこと

2023/2/9

私は教育学の専門家では無い。それにも関わらず私が世界中の教育関連の講演を依頼頂けるのは、建築が教育にとって極めて重要であるからである。建築家である私は教育者ではないから、自ら教育指針を作り上げることはできない。しかしながら、私が関わることで、教育に変革をもたらすことはできる。この20年間教育関連の建物を手掛けてきて気がついたことがある。教育の変革に建築が大きく出遅れているということである。言い換えれば変化できない学校建築が、教育改革の足を引っ張っていると言って良い。教育界は変わろうとしている。その変化を実現する為のパズルを教育関係者は集めている。そのパズルがなかなかつながらない。その時失われたパズルをそっと差し出すことができるのが私達の職能である。

デザインとは何か?デザイナーの役割とは何か?そこを知らずに依頼をしてくるクライアントが意外にも多い。「教育の為に必要な空間はわかっているので、あとはそれを素敵にデザインして欲しい。」という依頼である。既にわかっているということは、世の中に既にある建物を作って欲しいということに他ならない。勿体ない。建築は教育を大きく飛躍させる力を持っているのに。我々建築家が教育を教育者以上にわかっていると主張するつもりはない。

私はしばしば我々の職能をサーフボードメーカーに例え、園長先生をサーファーに例える。良きサーフボードメーカーは岸にあって、そのサーフボードに乗るサーファーのライディングスタイルを理解する。その地域の波の特性も理解する。しかしながらあくまでも波に乗るのはサーファー本人である。

建築が校舎が教育を変えるわけではない。しかし建築は教育を助けることができる。ここがOECD世界経済教育機構が「建築は第三の教師である」と唱える所以である。「建築は安全と安心を整える役割である。」と言われる。まだ多くの国が発展途上にある現代において、これは真実である。まだ雨露をしのぐことも満足にできていない、あるいは児童にじゅうぶんな十分な空間を確保できていない地域では当然である。ここで語るのはそれを超えた次元である。世界の教育は変わりつつある

ふじようちえんでは境界のないリング状の園舎が作られた。この園舎建設当時この園舎は多くの物議を醸し出した。当時における幼稚園の設計指針に則っていなかったである。加えて法改正や設計指針改正が行われた現在でも、地方自治体の中には旧来の基準に合わないからということで承認を得るのに困難をきたすことが多い。その反対する根拠の殆どは前例がないという理由である。しかしその前例がないというのは建築の世界に限った見方であって、教育界ではすでに多くの試みが成されている。教育界は変化しない建築を創意工夫しながら使っているのである。よって知らず知らずのうちに教育が建築によって足を引っ張られているという場面を日々目にする。

教室あるいは保育室間の壁はない方が良い。勿論、そこに音の問題が存在することはわかっている。あくまでも理想論である。元来子どもという動物には学年がない。一年の中で人間の子供は全て同じ時期に生まれるわけではないからである。よって成長の度合いは違う。加えて子供の成長の速度は皆違う。ゆっくり伸びる木でも大きく育つことがある。早く伸びる木は時期を逃すと大きくなれない。それを年度毎に分類するのが今までの教育である。小学校低学年の時期において、その該当学年の公教育が相応しい子供は35%から40%程度であるということは周知の事実である。20%は更に先に進む可能性があり、残りの20%は落ちこぼれて行く。その対応として飛び級あるいは落第というシステムも存在しているが、子供の心の健全な発達という点から言えば望ましい選択ではない。しかも子供はオールマイティーな存在ではない。中には全てを卒なくこなす天才もいるかもしれないが、それはごく一部である。国語が得意で数学が苦手。音楽に天賦の才があるが他にはまったく興味がない。

今までの教育は、子供は同じ質を持つ商品として扱って来た。リンゴの様な果物であれば
それも良い。等級で分けて値段が決まる。ところが人の場合はそうは行かない。公教育で教える内容は人類として生きて行く為に必要な足掛かりの一つでしかない。その一つの尺度で人の等級をつけると、その尺度の外にある子供がおざなりになってしまう。社会はオールマイティーな人間の集まりではない。人にはそれぞれ別々の役割があり助け合って生きている。

子供の多様性を伸ばす教育としてはイエナプランが知られている。その優秀さが知られている一方で、イエナプランは世界に普及していない。理由は旧来の教育よりも倍以上の教員の数が必要とされるからである。フィンランドは教育の大切さということに気がついた世界的に数少ない啓蒙された国である。特別な存在と言える。一方、現世界の大多数の国にとって教員の数を増やしつつ質を維持することは至難の技である。投票権を持たない子供関連の予算が後回しになるのは世の常である。

今ITによって劇的に教育が変化しつつある。教育には知識knowledgeと知恵wisdomの両面が必要である。知識とは情報であり。知恵とは知識を使う賢さである。従来の教育では知識の部分に重きが置かれて来た。教員は子供に知識を仕込む為に多くのエネルギーを費やして来た。そのため知恵を教える時間は限られていた。今ITが知識を教える教員の役割をかなりの部分で肩代わりできるようになっている。

タブレット端末を利用した教育では塾が先行している。塾に行く目的はペーパーテストで高い成績を納めることにある。知恵を考慮する必要はない。タブレット端末を利用する教育の利点は多い。

第一に子供は自分個人とってまさに今必要な勉強を選択することができる。子供の勉強の進行度合いはまちまちである。しかし先生が多人数の子供を指導する方式では、子供の進行度合いと関係なく平均値の教育をせざるを得ない。平均値から上下に大きく外れている子供にとって授業は無駄な時間となる。タブレットであれば小学校6年生が3年生の勉強をすることができる。小学校3年生が6年生の勉強をすることもできる。子供には科目によって得意不得意がある。興味があって得意な科目は先に進んで良いし、苦手な科目は振り返ってゆっくり取り組めば良い。

第二に人間関係を気にせずに勉強に取り組める。子供にとって成績の優劣は友人関係に直結する。従来型の教育の中で小学校6年生が3年生の教科書を開くことは恥ずかしい。よって授業後に補習を受けない限り追いつくことはできない。先に進んでいるからといって、上の学年の教科書を開くのは一目が憚られる。タブレット教育の場合、誰がどの段階に取り組んでいるかということを知るのは先生だけで良い。

第三に授業の長さやスピードも自分の都合に合わせることができる。生の先生の授業では無駄な時間も多い。人間であるから当たり前である。これを編集することで一時間の授業を40分程度で聴講することもできる。それをさらに半分に割って、20分毎に休憩を入れることもできる。同じ席に長く座っていることが苦手な子供にとって、一時間の授業は苦痛である。そのような学生であっても、頻繁に休み時間を取ればしっかり勉強することができる。

第四に場所に関係なく知識という面に限っては教育の質が担保できる。小規模な学校にとって教員の確保は大きな問題である。本来先生にも専門があるから、分担するのが理想なのである。小規模な学校では先生はなんでも教えなければいけない。タブレットであれば、日本全国で専門科目の先生は一人で良い。塾では優秀な先生の争奪戦が起きている。スーパースター先生の報酬は年間一億円を超える。公教育でそのシステムが普及すれば、スーパースターの極めて優秀な先生の授業を離島で受けることも可能になる。

しかし、タブレットは万能ではない。タブレットはあくまでも教育の知識の部分を補完する道具である。ペーパーテストの結果が上がっても、優秀な人間や社会は育たない。社会で生きる為には知恵が必要である。タブレットが介在することで教員の役割が変化することになる。タブレットが普及した教室では、先生は漢字の書取りや掛け算の採点にエネルギーを費やす必要はない。先生の役割は教育(teaching)から学習(learning)の環境を整えることに重きが変わって行く。

日本におけるICT教育の最前線である塾「東進ハイスクール」には教室がない。近代養鶏場におけるニワトリのように、仕切りに整然と入った子供達がタブレットに向き合っている。先生は勉強の進行度合いを管理し取り組みを促すことである。養鶏場でニワトリの健康管理し卵の数を数えるのと同じ作業である。当然のことながら、その環境の中では一切の人間関係が育たない。人間関係は勉学の邪魔である。タブレット教育は社会の分断する危険も孕んでいる。

現代に至る殆どの教室は教育(Teaching)をしやすいように作られている。言い換えれば先生が知識を与えるのに便利な空間になっている。旧来の教室とは一人の先生が多人数の生徒に対して話しかける構造である。そのような教育の時は全員先生方向を向いて整然と座ると効率が良い。平で使いやすいデスクや反射しないように工夫され見やすい黒板があれば尚良い。その横に黒板の上で使う教材入れがあれば便利である。各国の事情によりクラスの人数は違うが、構成は殆ど変化がない。1980年代より登場したオープンスペースはその教室の使い勝手の自由度を広げる工夫である。クラス間の連携も可能にある。しかしオープンスペースは従来型の教育の基本を変える工夫ではなく、欠点補完する工夫である。

ICTが普及した学校において、子供達はいつも同じ方向を向いている必要はない。タブレットで学習している間はソファーに座っていようと寝転んでいようと効率は同じである。野原にいても学習はできる。その一方でICTではカバーできない「つながり」を作ることが今までよりより重要になってくる。「つながり」とはグループ学習ではない。従来のグループ活動とは、少人数で集まって同じことをする構成である。ここで提唱する「つながり」とは実際の社会に近い多様性持った協力関係である。近年提唱されているProject Based Learningは「つながり」の学習である。世の中は多様な人々の協力関係で出来上がっている。人は常に世界の一部であり、一人で生きて行くことはできない。その生き抜く力が知恵(wisdom)である。実社会では問題に直面した時に必ずしも回答は用意されていない。回答がないから問題なのである。人生は問題の連続である。問題を解くためのパズルは与えられるのではなく、自分で探しに行かなくてはならない。一冊の本を作る為には、テーマに沿って取材に行き情報収集しなければならない。ライターだけではなく編集者が必要である。デザイナーとも協力して美しい装丁を施さねば売れる本も売れない。八百屋、本屋、レストランその他全ての職能は世界と繋がっている。その社会の一員となる人材を育てるのが学校である。

理想の学校は社会である。学校は社会に出るためのトレーニング機関である。よって学校は実社会に近い方が良い。与える教育だけではなく、自らの手で探しに行く環境を作りたい。

「子供は自分で拾ったものは大切にするが、もらったものは無くしてしまう。」ふじようちえんの加藤園長先生から頂いた名言である。
なぜかといえば、拾ったものは興味があるから拾ったのであって、自分がなんらかの理由で必要であると感じたからこそ行動を起こしたのである。与えられる時は、必ずしも本人にとって欲しいものであるかどうかはわからない。言い換えれば受け取る側の準備ができているから、自分で取りに行っているといえる。拾ったものを大切に活用する理由は自明である。

今年の4月に愛知県の瀬戸市に瀬戸ソランスクールという学校がオープンした。ICTを最大限に活用した日本初の学校である。近年統廃合により閉じた公立学校を改装し、部分的に増築をして。瀬戸ソランには大きなコモンスペースがある。コモンスペースは一つの街として設計されている。コモンスペースの周囲にはアレキサンドリア、コルドンブルー、ソクラテスラボ等の名前を冠したスペースが店のように配置されている。商店が街に開かれているように、各空間とコモンスペースの間に境界はない。先生と子供はコモンスペースに集い、必要な情報は逐次それぞれのスペースに取りに行く。言うまでもなくアレキサンドリアには本があり、コルドンブルーにはキッチンがある。しかしアレキサンドリアは図書館でなく、コルドンブルー家庭科室ではない。

瀬戸ソランスクールはオープン型教室を採用している。オープン型教室は旧来の教室型の教育を再検討する試みである。軽い可動パーティションはあるが、教室と廊下の間の壁はない。引き戸もない。その為徹底的な吸音対策をした。隣の音は聞こえるが今のところ問題は生じていない。鍵は暗騒音のコントロールである。二つの教室が隣り合ってオープンになると、隣の音や声が気になって授業に困難が生じる。一つ一つの音が情報を持って伝わってくるからである。しかし沢山の教室がエコーを押さえながら混じると情報が適度に重なり合い暗騒音となる。暗騒音は授業の妨げにならない。実社会ではバックグラウンドない場所は殆ど存在しない。友人と親しい会話をするのは喫茶店やバーであるが、いずれの場所も静寂ではない。むしろ静かな場所では込み入った話はしにくい。込み入った個人的に話をする時に、静寂な会議室を借りる人はいない。そう考えて行くと静かな教室というものが実社会でいかに特別な存在であるのかみえてくる。

人間はバックグラウンドノイズが必要な動物である。静寂には慣れていない。10年以上前にバリ島のケチャダンスのパーフォースに招待されたことがあった。会場はジャングルの中の広場である。素晴らしい謡とガムランの調の中で演じられた。そのパーフォーマンスをiPhoneで収録したところ不思議なことが起きた。東京で再生すると「ビー」と鳴り響くノイズが被っていて殆ど謡が聞き取れないのである。会場でそのようなノイズは無かった。その現象を我々を招待して下さった大橋力(おおはしつとむ)教授に話したところ、即座に明確な答えが返ってきた。「それはジャックグルのバックグラウンドノイズである。」要はiPhoneの故障ではなく、実際にあったノイズを拾っていたのである。人はジャングル中で育った動物である。よってジャングルにいる時、人間はそのバックグラウンドノイズを信号として消す能力を備えているのだ。私の脳はジャングルのバックグラウンドノイズを気が付かない間に消去していたのである。そのノイズキャンセリングシステムはジャングルの中限定である。よって東京で録音が再生された時、私の脳はノイズをキャンセルすることができなかったのである。実は我々の体は常にノイズキャンセリングを行なっている。心音や呼吸音である。体内に音は実は相当に大きいのに、我々が普通周りと会話ができるのはそのノイズキャンセリング機構のおかげである。水の中に潜るとこのノイズキャンセリング機構は止まり心音や呼吸音が聞こえて来る。それは通常の環境から体が水によって切り離されるからである。通常の環境とは健全な範囲のバックグラウンドノイズがある環境である。無響室という反響の全くない無音の空間がある。この中でも水の中に潜った時と同じ現象が起きる。無響室に入ると数分で心音や呼吸音が聞こえ始め、40分程度で人は精神に異常をきたすと言われている。無音の部屋が人にもたらす弊害については、新生児についての研究がある。無音の特別室に入れられた新生児が精神疾患を煩うのである。遮音技術は日々進化している。よって静寂な教室空間を作ることはより容易になりつつある。しかしながら静寂が子供にもたらす影響は必ずしも好ましいものばかりではない。

教育の変化はもう訪れている。今よりオープンで健全な学校建築が求められている。人は自己完結した存在ではない。周辺環境と共生する相互依存の存在である。教育もその分野に傾倒して行くことは避けられない。オープン型の教室の運営には多くの困難も伴う。特に音は大きな問題である。クラスが分解した時、教室に変わる拠り所を作らなければならない。優れた学校建築はその問題を解決する鍵である。解決策は必ず存在する。教育関係者と建築設計者が変化を恐れず共に協力し合う行為が今求められている。

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