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失敗

2017/3/7

昨日ピアノの発表会があった。

今年の演目はショパンの「エオリアンハープ」、「牧童のエチュード」という華麗な別名が付いている。それ程の難曲ではないが酔える曲である。ショパン独特の単純な旋律に微かな愁いを含んでいる。左右合わせて一秒間に20回ぐらい弾かれる鍵盤は、連なってさざ波のような畝りを紡ぎ出す。そのさざ波の波頭が白い飛沫を飛ばすように、高音域の鍵盤へボツリポツリと右の小指をあてる。上手くいくと悶えるように美しいのであるが、失敗すると、画竜点睛でいうところの瞳の点が間違って瞼(まぶた)の外に溢れてしまったごとくな無残なことになる。

準備は万端。リハーサルも完璧。ところがいざ舞台に上がると・・・頭は真っ白。哀しい。全く上手くいかない。なんでだろう・・・・。プロは絶対に失敗しない。建築の講演会の時は何処の国に行こうとも、観客が1000人いようとも全然平気なのに・・・。建築の講演会では3時間スライドなしでもぶっつけ本番で話せるのに、ピアノの時はたったの5分が突破できない。しどろもどろになってしまう。楽屋に戻ると、「こういう場所では60パーセントの力しか出ないのよ」と慰められたが、余計に哀しくなった。なぜ私はピアノを弾くのだろう・・・・。

私にピアノの才能は存在しない。どんなに一般人が努力しようとテニスで錦織になれないのと同じように、ピアノの世界にはエベレストのような無限の高みがある。峰は遥か彼方の空に白白と聳えていて、とても常人には行き着けない神の領域に霞んでいる。ピアノ教信者である私としては、頑張ってそのエベレストの8合目までぐらいは登りたいと思うのだが、8000メートルの高所に含まれる酸素は極めて少ない。今のところ麓の村のカトマンズぐらいで高山病にかかって喘いでいる。

神はショパンである。私は未だショパンを超えるピアノ曲を見つけられていない。誰がなんと言おうとショパンを超えるピアノソロは存在しないと思っている。完璧なのである。勿論技巧的には遥かに高度な曲が無数に存在する。しかしラフマニノフもリストもラヴェルもベートーベンもプーランクもどうしても好きになれないのである。時々ベートーベンの悲愴もいいなと思って浮気することもあるが、二、三回聴くだけで、どうしても曲の所々に存在する非連続性を許せなくなってしまうのだ。ショパンとて全ての曲が完璧なわけではない。幻想即興曲や別れの曲は別格である。それに続くのはスケルツォやエオリアンハープであろう。何が別格かといえば、破綻が存在しないのである。実に複雑な和音を奏でグルグルと演奏者を振り回しておきながら、ちゃんとあるべきところに着地している。べートーベンは美しい田園風景を連れ回して起きながら、田舎のバス停前で突然降ろされて、あとは自分で帰りなさいとばかりに放り出してしまう乱暴さがあり、どうしても許せないのだ。リストは弾いている方にすれば気持ちいいのだが、聴き手に回るとどうしても技術を誇示する高慢さが鼻に付く。ちなみにショパンのピアノコンチェルトはどうしてもいただけない。全く完璧ではない。ピアノコンチェルトに関してはベートーベンの方が上である。ショパンのピアノコンチェルトは、私のプレイリストに存在していない。ショパンはソロ限定の作家である。

しばしば「手塚さんの理想とする作家は誰だ?」と取材で問われることがある。困るのである。傲慢なようであるが、ルイスカーンであろうとコルビュジェであろうと作家である限り、競争相手であることにはかわりない。最も尊敬すると作家と言われればルイスカーンであろうが、尊敬と理想は違うのだ。建築界に私自身の人生が漬かっている故であろうか?例え最も尊敬するルイスカーンであろうとも、失敗や悩みが透けて見えてしまう。葛藤が見える。建築に完璧は存在しないのだ。建築家は人間にしか見えない。神は存在しない。美は合理性の近傍にありという坪井先生の名言がある。この世界では、いかなる巨匠であろうとも、近傍どころか的にあてるだけで精一杯。黒丸を射当てるなどあり得ないのだ。建築家の矢道には「しがらみ」と言う名の横風が吹き荒れていて、放った矢は的どころか時には場外へと吹き飛ばされてしまうのだ。

取材で「手塚さんの理想とする作家は誰だ?」と問われると、建築家ではなくショパンと答えることにしている。からかっているわけではない。真剣なのである。学生の頃から、なぜショパンのような建築が作れないのだろうと悩んでいる。建築の世界にあっても私の神はショパンなのだ。ショパンの曲には構造がある。その構造と完全に調和する仕上げと詳細がある。コンセプトは明快で決してぶれることはない。私は設計に悩むとピアノに向かう。これは大学生時代からの習慣で、今も変わることがない。留学の時もピアノがある宿を選んだ。大家さんはフィラデルフィアオーケストラ関係の人で、二台グランドピアノがあった。我が家には小さいながらもグランドピアノがある。

私はアマチュアであるから、ショパンを弾くときは全身全霊を傾け、大脳ニューロンの全てを出動させねばならない。結果として世の中の雑多な諸事がざらりと洗い流され、生命を司どる脳幹だけが自分として居残ることになる。私は座禅が苦手なのであるが、聞くだに禅の境地とはそういうものなのであろうと思う。私にとってピアノは般若心経に等しい。ショパンを弾いている間、いつも私の意識が行き着く世界がある。背の高い木が道の両側に立ち並んでいて、その間を微かに風が吹き抜けているのだ。木々の間に見える背景は曲目によって春の緑や秋の黄色に変幻を遂げる。時折突然舞台へと場面が移り変わり、軽やかに足取りを変えるダンサーの足先が見える。この二つの世界を往復し続けるのだ。そしていつも思うのである。どうやったらショパンのような建築を作れるのだろうかと。

なかなかピアノがうまくならない。軽々と難曲を弾きこなす人を見ていると、ガラスの壁の手前でもがいている感覚に囚われる。決して超えられない見えない壁。しかしふと気がつくと、建築の世界では自分がガラスの向こう側にいることがある。特に大学で学生を指導しているとそれが起こる。私は大学で図学を指導している。その中で水彩画を教えることがある。ところが私がどう教えようが、うまい水彩を描ける学生は1学年120名中1人いれば良い方である。私が5分で済むことを1時間頑張ってもできない。学生に誤解ないように付け加えておくが、水彩を描く能力は必ずしも建築家としての才能とは一致しない。しかし建築家にとって便利な能力であることは間違いない。この能力は私の父親である手塚義男から受け継いだ能力である。父親は実に巧みな水彩画を習字でも嗜むようにサラリと描いていた。その父親の父親である私の祖父の手塚文蔵もまた水墨画の達人であった。そうか私にはピアノの才能がなくとも他の道がある。ピアノがうまく弾けなくても哀しむことはない。私には建築があるのだ。

2017年2月5日
手塚貴晴

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