Message

Back

屋根の家物語

2016/2/1

やねのいえ (くうねるところにすむところ―家を伝える本シリーズ) 手塚貴晴 (著), 手塚由比 (著)

「屋根の家」という何の変哲も無いようでありながら不思議な含みのある名の家屋は、我々の100を超える作品群の中で特別な位置を占めている。この建物を手がけて以来何を手がけても、この小さな家を起点とする概念の広がりは大きく、西遊記に登場する釈迦の手の平のようにどこまで行っても逃れることができない。傾いた屋根に人の営みを載せるという何の変哲もない思いつきは、百様に変幻を続け留まる処を知らない。その後に作品は何をしようと「屋根の家」の発展系の誹りを免れない。我々の作品群のフラッグシップである「ふじようちえん」でさえ、ケーキの如く放射線状に切り分けると屋根の家の集まりであることがわかる。世界中どこに足を伸ばしても、同業者からは「あー屋根の上に人乗っけて喜んでる作家ね」と称される所以である。我々は他にも手広く色々な品々を商っているのであるが、「虎屋と言えば黒羊羹」というような呈で他のメニューは忘れ去られてしまう。

そもそも「屋根の家」という名称は矛盾を含んでいる。家であるからには屋根があるに決まっているのであって、今更「屋根」という修飾をつけることは、「ピーコ頭痛が痛いの!」という一昔前の広告と同様、意図的な国語上の誤謬がある。さらに「屋根の家」を「屋根のある家」と輪をかけて言い間違える方もいる。ここまでくると言葉遊びを通り越して、この仁はもしかすると哲学者なのではないかという深読みが働いてしまう。一つ気がついたことがある。多くの人々はどの家にも屋根があることを失念しているのである。その一方で街並みという人界を睥睨する視点に立つと、思い浮かぶのは屋根である。屋根というものは自らの鼻頭と同じで、眼球の最も近傍に座していながらよほどのことがなければ視界に入ることはない。その一方で鏡前でしげしげと自らを量る時無視出来ない存在である。

築15年になるが我々夫婦は屋根の家をしばしば訪問する。この訪問が一時間程度で終わったためしがない。施主設計者互いに忙しいので大抵の訪問は取材を名目にして時間をとる。よって取材そのものは最重要事項でないので、数限りない取材をこなしてきたご夫婦は取材陣を良きようにとりはからってしまう。間違っても緊張などしない。「まあどうぞおかけ下さい」という口車に載せられ百戦錬磨の取材クルーは宴席の一角を占め、気がつくとどうでも良い茶飲み話に巻き込まれつつ一日が過ぎてしまう。一見すると業務怠慢である。取材のクルーは取材対象から接待を受けてしまうと客観性が失われ取材先に迷惑がかかるので摂待を避けるのが常道なのであるが、屋根の家でこの薦めを断ると酒宴で盃を断るが如く気まずさが生まれる。よって屋根の家では止む無く食卓に巻き込まれる形が取材の作法となっている。

取材は宴会の合間に行う。台所には我々も立つ。ご夫妻は人を褒めるのが実に上手い。「手塚さんは手際がいいわねー。」とおだてられると、腰が自然と浮き上がり、気がつくと台所の主人公になって喜々としてつくね汁を仕込んでしまう。そういえば同業の千葉学氏によれば、盲導犬トレーニングの基本は褒めることなのだそうである。高橋ご夫妻は実に優秀なトレーナーである。そういえば15年前この御宅との出会いはつくね汁に始まった。屋根の上に登りたいというお話もつくね汁を囲んで押し頂いた覚えがある。思えばあの時のつくね汁で我々は術中に取り込まれ一度も醒めていないのではないかと思うのである。

屋根でご飯を食べたいと言ったのは高橋さんである。我々の発案ではない。初対面のの夜レンジで温めたつくね汁の香りが立ち込める台所と一つ続きの居間で、三時間以上あれやこれやと話を重ねたのであるが、ついぞ屋根の話以外があったことを覚えていない。建築の話はどうでも良い四方山話の中に埋もれてしまって、いろいろと聞いたようで何も要点を成していなかったことを帰路に着いてから気がついた。大抵の場合我々の 住宅の打ち合わせはこのような手順で進み、建物そのものについての打ち合わせは実に短い。とりわけ屋根の家の打ち合わせの時はそれが顕著で、半日逗留しても帰途に着く四半時前まで建築の話にならない。大抵の打ち合わせは近隣にある奥さんの広いご実家で開かれたが、その都度中華和食と次から次へ繊細で手の込んだ小鉢や皿が運ばれて来る。料理が好きな私はその勢いに巻き込まれて他のことには氣が回らなくなってしまうのが常であった。

引っ越してから高橋家の食が変わった。煮立てた鍋の中に塩ジャケを落として、漸く身が割れる生でないギリギリのゆだり加減で引き揚げそれをほぐす。ツブツブのトンブリとカツオ節の醤油和え物。これを湯気の香る白米に乗せて食べるとこの世の幸せをかき集めたように旨くて箸が止まらない。これに時々雑巾のように大きい厚揚げが無造作に少し焦がされて添えられると、百年来日本人の食卓とはこうあったのではないかという錯覚さえ生じてくる。「もう難しいの作るのめんどくさくなっちゃったのよね。」と奥さんは言うが、その裏には「この建物にはこれが合うのよ。これで十分。」という含みが裏にあって、設えた建築家としては嬉しさが溢れ出して目尻を下げてしまう。建築が齎す環境だけで御菜としては十分であって、その上に手の込んだ酒肴を加えては興醒めであるという意味である。

高橋家には二人の娘さんがいる。一人は丁寧に年下の子供達の世話を焼く気が回る姉で、もう一人は面白い妹で蛍光色のゴムボールのように笑い転げ回って暮らしている。この二人が組みすると一対の電灯を灯したように夜でも煌々居間が明るくなる。この家は必要な場所に必要な高さに裸電球を思うがままにぶら下げるという変わった照明計画なのであるが、この二人がいるだけで黒空の下に電球が展開する縁日のように賑やかになる。この二人に出会って我々は心底子供が欲しいと思った。両親の柔らかい愛に包まれた二人をみて、かけがえのない宝物とはこういう物かと思った。不思議なことに我々が訪れる度、二人は親類でもない我々夫婦を楽しませようと色々と創意工夫を重ねてくれた。内容は忘れてしまったが、傘を小道具に小劇場をしてくれたこともある。今新作を作っているから今度来たとき楽しみにしておいてと言われたまま、二人の子供達は次第に忙しくなり、気がつくとその最新作はお蔵入りになってしまった。あの作品はどういうストーリーだったのだろうかと今でも想う。

子供ができると我々は我々の子供を連れて屋根の家を訪問するようになった。最初は娘で次は息子。この二人を高橋さんの娘さんたちはよく可愛がってくれた。不思議なもので次第に担当ができた。自由奔放な妹さんと芸術家肌の我が娘、それから面倒見の良いお姉さんと要領の良い我が息子の組み合わせである。今や屋根の家は親戚の家以上に近い他人の家である。

屋根の家が完成して12年後、「箱根彫刻の森」に「ネットの森」という最新作が完成した時、高橋ご夫妻がオープニングに現れた。ふと気がつくといつも一緒の筈の姉妹がいない。どうしたのと聞いてみると、もう大きくなっちゃって忙しすぎて来てくれないのよ。夫婦二人に戻っちゃったというのである。なるほど、子供は期限付きの家族なのだ。今我々には11才の娘と8才の息子がいる。この子達もいずれ自立して旅立つのだと思うと、それだけで眼窩の奥に熱い血潮が湧き上がってくる。我々が親になった時ドイツ人の親友Olver Kuhnがくれた名言を思い出した。

You are going through the most beautiful moment of your life.

Don’t miss the time. The time will last only 10 years.

おまえはこれから人生で最も素晴らしい10年を過ごすんだ。

この時を逃すなよ。

たった10年しか続かないんだ。

家は巣なのだと思う。必死に雨の日も風の日も卵を暖め雛を孵す。孵した雛にせっせと餌を運び暖め暖められ、気がつくと雛は巣立つ。もちろん10年を過ぎても子供は子供であり親は親なのであるが、10才を過ぎると子供は家という巣から出て、街へと羽ばたき始める。もはや親の暖かい翼に大人しく収まっていてはくれない。家はその大切な10年を育んでくれる。その間の子供にとって家は世界である。ほとんどの時間を床に転がり壁を撫で声の響きを確かめながら長い一日を毎日過ごす。子供が去ったあとあの屋根の家はどうなるんだろうと思う。今度は孫が屋根に登るのだろうか。

Facebookでシェア
Twitterでシェア