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数日後の311に向けて備忘録

2023/3/23

東北を津波が襲った。深い襞を刻んだ山々は、そのまま海へと沈み込み、風光明媚なリアス式海岸を作り上げる。数億年前の渓谷は深海となり、かつての谷戸が水辺を呼び漁村を育てた。地形は漁労に優れている。肱の近傍に浅瀬から深海までが届いている湾は度々群来を呼び込み、行政の中央から隔絶したこの地に富を貯めた。かつての景色を埋めていた家屋は大棟が高い。その富は実は命の値段でもある。いうまでもなく漁労は命と隣り合わせの職業である。だから陸の農業よりも高い賃金が払われる。自然、その住処も便利な海沿いになる。リアス式海岸の奥が津波の餌食になることは、日本人であれば誰もが知っている。「稲むらの火」という言い伝えが小学校の教科書載せられているからである。にも関わらず2万を超える命が失われたのは、津波を人々が忘れたからではない。その危険な場所に人が住むという習性があるからである。海の富に人は群がっていたのだ。富があれば地域に誇りが生まれ文化を生み風土となる。しごく自然な成り行きと言って良い。生業である。ここまで地域が熟成されると人々は容易に町を捨てない。その思い入れが命を奪った。あれだけの命が失われたのに、高台移転が容易に進まなかったのはその思い入れが故である。富は命の値段であった。

2011年の春。南三陸町。曇り空の下、体育館の前に座っていた。ユニセフからの依頼に応えるためである。そこへ至る道のりは険しかった。津波の鉤爪は深く土を抉り、自衛隊の重機が倒壊した建物を掘り返し命を探していた。福島の第二原子力発電所は煮えたぎり同位体のセシウムを放出し続けていた。既に一月以上を経過していたから、生きている者はいない。一般車両は入れない。ユニセフのシールが貼られた四輪駆動車が、入れ違う轍を乗り越え頭を振りしきりながら、我々を南三陸町へと運んだ。腐敗する生き物の匂いが激しく大気を黄土色に染めていた。よそ者に過ぎない我々に、その匂いの元がなんであるかを問う勇気はなかった。

ふと黒い衣を纏った僧が和かな笑顔を浮かべながら話しかけてきた。体育館の中には無数の犠牲者が安置されている。その多くは引取り手がないという。僧はその遺体を周りながら法語を唱え引導を渡している。ひとしきり話し込んでいると、町の関係者が現れて話に加わった。妙である。この混乱した状況の中で一介の訪問者である我々の周りに人が来るのか。ようやく気がついた。その僧こそ我々が長い悪路を辿ってきた目的地であったのである。私は、「今頃気がついたのか、この人は。」という失笑をかいつつ、場を戻すべくしどろもどろになりながら頭を掻かざるを得なかった。

僧は「稲むらの火」に近い伝説を背負っていた。大雄寺という古刹が南三陸ある。日本最北の回廊型伽藍と言われているが確証は得られていない。回廊型伽藍というのは奈良県や京都府に多く見られる格式ある伽藍配置で、回廊を引き廻し仏界を表す境内と世間を分けている。現在の伽藍は江戸時代の由来ではあるが、創建は鎌倉初期。奥州藤原氏の本吉高衡と寺伝には記されている。

その石段には津波の記録がある。この都度の津波ではない。前記したリアス式海岸の地形が度々津波を呼び込み、この海岸から1.5キロも離れた石段を駆け上っている。石段に至る参道には巨大な並木が並んでいた。並んでいたというのは、この県指定重要文化財であったこの都度の大津波で塩枯したからである。陸前高田には「奇跡の一本松」という津波遺構があるが、人々の懸命な努力にも関わらず枯死した。植物学の専門家によれば当然の出来事である。南三陸の木々も津波圧には耐えた。むしろ陸前高田の松原以上に耐えた。しかしその辛抱にも関わらず、潮に浸かった木々は全て枯れた。潮に浸された土が、木々の水気を吸い取ったからである。水に浮かべられていながら海の木場に浮かぶ丸太が乾くのと同じで、塩分の引き起こす浸透圧の差が木々の生気を吸い上げ、木材の水気を抜くのである。

その石段に記録がある。津波の跡である。津波の地域では古刹のある高台に登れば命が助かる。それはごく簡単な道理である。その位置に古刹が時を超え生き残っているということは、その高さまで津波が到達したことがないという証明であるからである。寺と津波モニュメント間には大きな違いがある。寺は日常であり住職が在って生活の中に生きている。モニュメントの方はなんの機能もないから、いずれ忘れ去られてしまう。日本各地には津波の到達点を示すモニュメントが残っているが、気に留める人は殆どいない。

津波が押し寄せる中、住職は寺の高台に立って町民を呼び寄せた。低地にあった寺運営の幼稚園の子供は1人残さず高台へと逃げのびている。寺には十分な伝承と証拠があり、それの対抗策を滞りなく完遂できたからである。寺と住職は「稲むらの火」の浜口梧陵と同じように、無数の町民の命を救ったのである。

我々が大雄寺を訪れると、無数の犬に吠え掛かられた。寺は避難所としても活躍をした。寺は公には避難所として認定されていない。しかし公の避難所以上の活躍をした。犬や猫も引き取ったのである。公の避難所が戸籍台帳のように人を整理したのに対し、寺は町をそのまま抱きとったのである。思えば寺は明治政府より遥か昔から町民の拠り所であった。その長年の義務を果たしたに過ぎない。

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