近年世界中で木造高層ビル建設の競争が起きている。木造建築の国際会議に行くと力比べのような講演会が続く。五階六階はあたりまえ。その気になれば高さ100メートルの超高層でもできるという。木は炭酸ガスの塊であるという。だから木を建築にたくさん使えば空気中の炭酸ガスが減るという。木造の高層ビルは重たいから、膨大な木を消費する。だからどんどん木造ビルを作りましょうという論理である。CLTという木材の加工法が奨励されている。CLTというのは英語ではCross Laminated Timber。交差方向に木を貼り合わせた木材という意味である。これは木材業界にとっては画期的な工法で、一方向の力学でしか使えなかった線材を、二方向に使える面材に発展させたという事である。木材が鉄筋コンクリートと同じように使えるようになった。木造特有の難しい構造力学もいらない。かつて大工が長い間かけて学んできた経験値も必要がない。火事の時の延焼を抑える耐火の床や壁としても使える。利点を論うときりがない。勢いは留まるところを知らず、全ての壁から屋根ついには梁や柱に至るまでCLTで作る建物が現れた。CLTだけを使って建物を作ることを奨励する補助金もある。木造の規模は限りなく大きくなりつつある。
かつて日本は江戸時代に山という山を禿にしてしまった罪の歴史がある。江戸時代の人口は3000万人程度に過ぎない。今の日本の人口の四分の一である。もし全ての建設物が木になったら何が起こるのかは明白である。足りない分は輸入すれば良いではないかという向きもある。当然のことながら良いことではない。日本の家を作る為に、インドネシアやボルネオの山を搾取すれば罪である。間伐材を使えば良いではないかという議論もある。それは正しい。しかし間伐材とて総量の限界はある。加えて、間伐を必要とするような植林方法が持続可能であるのかという疑問もある。杉や檜の単一栽培林は一種の畑である。保水力もなく病害虫にも弱い。木はコンクリートや鉄骨の代替え品ではない。限られた大切な資源である。木を無鉄砲に大量消費する事は罪でさえある。木を大量に消費すれば問答無用で環境建築であるかのように主張する行為は慎むべきであると思う。
木は命である。命は有り難く押し戴くべきである。日本には大黒柱或いは床柱といった木そのものを崇め奉る習慣がある。上棟式という儀式がある。建物は森の生き変わりである。木霊に家内安全を願っているのである。かつての大工は木目を読み、柱がどの方角にお辞儀するかを知っていたという。柱は植っていた方角に植える。そうすれば全ての柱が同じ方向に動くので、嵌合に無理が起きないという。
木造は素晴らしい。美しい。だからこそ「環境建築」という怪しげな倫理に価値を矮小化してはならない。木は生きている。木の年輪は生きてきた歴史の刻みである。噴火が起こした飢饉の年。実り豊かであった時期。戦乱の炎。全て記録されている。木は大切に使えば優しく応えてくれる。古の社寺が人の魂を震わせるのは、その立ち姿が自然形であるからである。あるべきところにあるべき姿で使う。木の接合部は弱い。故に斗栱と肘木の手先という複雑な木組みが生まれた。飾りではない。全ての動物の骨格に恐ろ強いほどの構造合理性が見出せるように、法隆寺や唐招提寺の木組みには力学の知恵が刻まれている。
ここで何も昔の工法に戻りたいと宣言するつもりはない。過去は学ぶべき知恵であって、模倣すべき形式ではない。CLTや大規模木造を否定するつもりはない。技術進歩は止めるべきではない。しかし木造には木造の慣わしがある。木造には木造の力学がある。木はコンクリートや鉄骨の代替え品ではない。ルイスカーンの「レンガがアーチになりたがっている。」Brick wants to be arch という名言に同じである。
大切な事は木霊を大切に扱っているかという事である。木々は撓る。風や地震の力を受け流す為である。金物を使うことを否定するつもりはない。古来より鎹を使う。釘も使う。技術が進歩した今、嵌合結合にいつも頼る必要はない。木は山の恵みである。有り難く押し戴くものである。寿司職人が木の目を読むように、現代の建築家も木の力学を理解しなくてはならない。木は鉄筋コンクリートや鉄骨に比べて材料としてはるかに弱い。その一方で遥かに軽い。フィギュアスケーターが体をしならせるように踊ってほしい。力強い建物を作るのであれば、唐招提寺金堂のように堂々と千年を超え語り部となってほしい。