絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。
老師のお言葉だそうである。何故奥田牧師先生(以下敬称略)が自身が運営する組織に抱僕という名をつけたのか。奥田牧師には、かれこれ14年。幾度となく同じ質問をしている。私は真剣なのであるが、奥田牧師とお話しすると、切り替えを間違えたディーゼル電車のように、いつの間にやら緑の茂みに分け入って、なかなかこの目的地に辿り着けない。これは奥田牧師という運転士に問題がある訳ではなく、手塚貴晴という運転士に話しかけ続ける迷惑な乗客の方にある。そのくらいに話好きな運転士という遠因もある。少々飲酒運転の疑いもある。そこで漸く真面目に調べてみることにした。
抱樸の樸とは、切り出したあるがままの木材のことをいうのだそうである。四年ほど前の佼正新聞に以下の講演録がある。
「ささくれ立ち、棘(とげ)のある原木や荒木を抱きしめれば、体に傷がつくように、人を丸ごと受けとめると、多少なりとも傷つきます。「絆(きずな)」は「傷(きず)」を含みます。しかし、その痛みが生きている実感となり、人と共に生きているという証しにもなるのです。20210709」
樸には含みが多い。切り出した原木は使いにくい。建築資材になるのはごく少数のエリートに過ぎない。残りは端材として廃棄される運命にある。材木であれば環境問題としてはともかく、人は廃棄できない。森林を資源と考えると、単一種が並ぶ人工林がは効率が良い。しかし森林は単なる資源ではない。森林は共生体である。無数の生きとし生けるものが生殺与奪を繰り返しつつ生かされあい生かし合い時を刻んでいる。「奇跡のりんご」という本とそれに基づく映画がある。りんごというのは弱い種で、人間の用に合わせて品種改良を重ねた結果、猛毒の農薬を散布し殺菌した土にしか育たなくなってしまった。その不健康さに異を唱え、雑草や雑木を生やし放題にして、無農薬りんごの出荷に施工した農家の話である。植物にはコンパニオンプランツという関係がある。植物はお互いを補完する関係性がある。だから単一種だけを栽培すると無防備になり、農薬頼らざるを得なくなる。農家もりんごも薬漬け。だから自然に帰ろうという話である。自由が丘にそのストーリーを掲げる店もある。しかしスーパーに行っても奇跡のりんごはない。小さいし見かけも良くないからである。世の中の人達は見かけで品定めをする。
気がつくとこの世は人に対しても同じ品定めをしていないか。奥田牧師は「みんなおんなじいのち」という。人間社会を資源と考えると、単一種の人工林が一番効率が良いように見える。雑木林から出る樸は薪ずっぽうにしか使えない。森と林では大きな違いがある。森とは生態系である。林は人界と物怪の境界域に生まれた木の畑。樸はそこから切り出された木の屍である。木の屍の価値を測る尺度がJIS規格であり、樸はその企画に合わないから捨てられる。奥田牧師は樸を抱こうとしているが、実のところ樸は既に屍である。棘が出ているのはあたりまえである。抱けば痛い。樸も元々は生きていた。樸は土の滋養を吸い上げ水を送り梢を葉で飾り木漏れ日を土へと返していた。その葉は地に落ち虫とバクテリアの餐と成り果て滋養となる。地表から1メートル程に過ぎないこの腐葉土の立派な構成員の一つであった。樸を慈しむ残骸と捕えず命と想うと光が見える。そこに哀しみはない。人の社会を畑としてはならない。畑は屍という素材を作る生産地である。森の植物は幸いである。繋がりの中で生きている。
柘植を海沿いに防風林として植えたことがある。するとある日その柘植を植えた子供園から、「何故棘のある植物を植えたのか?」という連絡が入った。行ってみるとみかんのような長い棘が無数に生えている。本来柘植には棘がない。その後になって知ったことであるが、柘植を厳しい条件に植えると棘を生やすことがあるという。豊かな土壌に育つと丸い優しい葉を茂らせ滑らかな樹皮を被る柘植が、恐ろしげな棘を無数に纏っている。柘植が怒っている。見回すと友達がいない。海風が葉を洗っている。木も友達がいないとこうなるのか。人と同じである。
Jhamtse GatsalのGenlaによれば、毎日8回抱擁すればどんな辛い心傷を抱えた子供も愛を知るという。奥田牧師の奥さんが、ある暴れる子供を日々抱擁し続けて愛情を伝えた話を聞いた。実は皆人間は社会という森に生きている。コンパニオンプランツのように補い合い、生かし合い生かされている。林という畑では人は幸せになれない。人工食だけで生かされる毎日はごめんである。中華料理を食べ、味噌汁をすすり、注文を間違える店で食事をしたい。この世の人は全て不完全である。不完全であるが故に手を伸ばし合い生きる。抱樸の樸は切り出した薪ずっぽうではない。命である。希望のまちは森である。林ではない。杜でもない。森は生きている。森の木に抱きついて嬉し涙を流す奥田牧師が見たい。
参照 奥田 知志