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民族と国

2022/3/4

憤懣に任せて書いた乱文長文なので、お忙しい方は無視してください。

民族は国家でない。民族とは、一つの文化を共有する集団である。人種という遺伝子で民族を分類する手法もある。しかしながら、実際のところこれらに明確な境界など存在しない。世界の文化とは入り混じり合う存在であり、明確な境界など存在しない。人種は移動し交雑している。純血種を見つけ出すことは不可能である。また純血種という存在自体が時系列の中で特定の位置を抽出した人為的な存在である。万世一系と謳われている天皇家でさえ、人類の10万年とも100万年ともいわれる歴史の中では、一瞬の傍系に過ぎない。
しばしば民族というものはその民族が継承する文化と重ねて語られる。しかしながら現存する文化遺産の中で、全てが一つの民族で創作されたものは存在しないと言って良い。大陸に行くと、「日本建築は中国や韓国の建築の複製である。」という説明を受けることがある。それを受けて「日本建築は独自の様式であり、日本民族が作り上げた独特の文化である。」という反論が日本側から出る。愚かである。こういった類の文化論争に答えはない。文化は見る方向によって全く違う様相を見せる。文化には明確な境界線というものが存在しない。日本建築は日本古来の手法があったと言われる。しかしそれだけで日本建築ができているわけがない。大陸の僧や工匠が渡来し、新しい技術と土着の技術が混じり合い熟成した複合体が日本建築である。遥か昔に渡来した僧や大工は日本に帰化し、もはや日本人のステレオタイプと区別がつかない。日本人という純血種は存在しない。ここで日本独自の文化というものは存在しないというつもりはない。むしろ私は日本文化の大切さを貴重さを愛でる日本人の一人である。ここで言わんとしてることは、文化は一つの民族国家に独占される財産ではなく、人類共通の資産であると考えるべきだという意識である。
紛争のニュースが耳に入るたびに思う。為政者は常に民族あるいは国家という大義を唱える。その大義をもってして境界の正当性を主張する。そして戦う。しかし本来人間に境界線など存在しないのだ。世界中の為政者たちが国境とは幻想に過ぎないと気付くのはいつの日になるのだろう。

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