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西粟倉村その4 命のつながり

2023/5/8

牧 大介さんの会社のエーゼロという名称は紙の大きさのA0ではない。一種の職業病と言っても良い。なんでもかんでも間尺と角度に変換してしまうのが建築家の性癖である。目の中に目盛が入っている。なんでもかんでも数式と数字に変換される。しかし西粟倉のエーゼロは紙とも間尺とも全く関係がない。「命のつながりである。」

気がつくと我々は「命のつながり」の仕事が多い。「チャイルドケモハウス」も抱僕の「希望のまち」もヒマラヤ孤児院「ジャムセイ・ガッツァ」もみんなつながりである。奥田牧師によれば人間は唯一1人で子供を産めない動物であるという。「助けてと言える。」ことが大切であるという。要は命は単独では成立せず、無限の生態系バランスに一部として生かされている。進化を重ねた人間は、いつの間にか神になった気分で、自分が大いなる存在から飛躍独立した存在と勘違いして支配者として振る舞うようになった。だから環境の中で居場所を探すのではなく、自分だけの理想的な切り離された環境を作り上げるまでになった。建築で言えば今流行りの高気密高断熱の基準がそれである。誤解を避けねばならない。高機密高断熱そのものが悪いわけではない。高機密高断熱そのものは素晴らしい技術である。しかしそれが規制になると、手段と目的が入れ替わり始める。最近軒が深く外と中の間に空調をしない中間領域のある快適な住宅を設計している。場所は瀬戸内。ほとんど窓を開けて暮らそうという工夫である。冬は二重の空間が暖かさを守る。これが高機密高断熱とは認められず融資や補助金が受けられない。中間領域も空調を前提として設計を求められるからである。冷蔵庫のように周辺と関係を絶つと建築を作りやすい制度である。本末転倒であることは言うまでもない。

煩瑣となるのでここではこれ以上立ち入らないが、建築は原点に戻る必要がある。原点と何か。この村にヒントを見つけた。

閑話休題。エーゼロの話に戻す。会社のキャッチコピーをそのまま転載する。

「森の土の表面にある、生命を育むための大切な層を”A0(エーゼロ)層”といいます。
A0層があるからこそ、森の物質循環が維持されることと同じように、
私たちは、日本の地域経済の循環を下支えしていきたいと考えています。」

こう言うキャッチフレーズは得てしてイメージだおれのことが多いが、この会社はそれをそのまま躯体としている。森に入り森と共に生きる。大切なことは共に生きるということである。誰も損をしない。みんなに良いことがある。森の中の細菌叢から樹木に至るまでの共生関係を村の概念まで発展させんとする試みを行っている。

「この木何歳だと思います?」課題は幹周り10センチ直径4センチ程度の小さな木である。その質問に私は迷わず「25年」と答えた。「良い答えですね。」そこで私は意気揚々と「まあ木はいつも使ってますから。」と自慢げに答えた。「実は100年です。」「ええ?」大外れである。愚かな浅知恵を晒してしまった。「…」オオカメノキという。小さいのに金さん銀さんの歳。ゆっくり成長する。その横に大きなブナがある。これはわかる。娘の名前にしたぐらいであるから。ここには大きく長い時間が流れている。滔々と続く軸の中で、大きな生命と小さな生命が人命を遥かに超えた大きさで瞬いている。

今は被子植物に時代であるという。裸子植物が800種程度であるのに対して、被子植物は40万種以上存在すると言われているという。しかし要点は栄枯盛衰ではない。前の時代のものがちゃんと生き残っているという点である。ブナの表面に叢類が生えている。人であれば皮膚病といったところで、医者は塗り薬を処方してくれる。「清潔にしなさい」と助言を受ける。しかし、この表面の苔だけでなく無数の菌がいて、全てが共生関係にあるのが本当の森である。信号も伝わる。木が切りつけられると毒素を出して、食われないように不味くする。防御本能であるという。その化学物質は信号となり周辺の木々にもインターネットとして伝わる。まるで映画のアバターの中に出てくる偉大な樹木エイワである。種が落ちると、大きなブナは母となり、周辺の子ブナに乳を与えるという。それは栄養となる菌である。ここでは食うも喰われるも同じこと。一つの巨大な命として繋がっている。あまり深入りすると知識の浅い受け売りが暴露してしまうのでここまで。要点はこの偉大な生態系のつながりを手本として、複雑で有機的な社会を里山をベースにして構築せんとする怖いもの知らずの試みである。

https://youtube.com/shorts/KVE1cUYR0r0

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