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P(ピアノ)

2020/2/5

ピアノとはPと表記して小さな音のことを表す。ピアノという楽器は小さな音を出せる画期的な楽器として登場した。ピアノの前身はチェンバロである。チェンバロからピアノへの発展は、弦をはじくことから叩くことにある。今気がついたが「はじく」とタイプすると「弾く」と変換され、ピアノを「ひく」とタイプした時と同じ「弾く」に変換されてしまう。これは日本語における漢字という貰い物の持つべき不正確さの一面であろう。ピアノは「はじく」のではなくハンマーで「叩く」楽器である。弦楽器といえばギターがチェンバロと同じく「はじく」楽器である。ただし機械で弦をはじくチェンバロとは違い、生きた指の爪弾き加減で音色は自由に変化する。機械仕掛けのチェンバロはPの表現ができない。そのチェンバロの欠点を解決した機械仕掛けがピアノである。ピアノを開けてみると、その複雑な機構に感嘆させられる。鋼製の弦を柔らかいフェルトのハンマーで叩いて音を出す。微妙な指加減でその差を出すために、無数の部品が組み合わされている。それが人間と一体になってムクムクと動く様は、生き物としか思わせない趣がある。これを発明した人間は技術者という無味乾燥な資格を超えて明かな芸術家である。テオ・ハンセンという風を捕まえる素晴らしい芸術家が現代にはいるが、人の感情を捕まえることに成功したピアノはそれを遥かに超えている。ピアノの音色は瞬く間に世界中の音楽シーンの定理の地位を確立してしまった。ピアノの奏でるコードを避けて作曲することは今や不可能に近い。しかしその真髄は音階にない。P(ピアノ)にあるのだ。これから先は楽器のピアノと区別する為あえてPと書く。

Pという概念は私の中で美学の基調となっている。音は小さく微かであるほど美しくなる。大風より微風が人の心を和ませるのと同様に、小さな音の浸潤力は計り知れない。小さければ小さいほど音は丁寧に聴かなければ聞こえない。最近料理学校の「利き水」の授業をみた。読んで字の如く水の違いを言い当てる技である。難しいようであるが、トレーニングするとほとんどの学生が利き分けることができるようになるという。和食の世界では微かな水の違いが味に大きな影響を及ぼす。微かな微かな機微を手探りで嗅ぎ折り重ねて行くのが和食の基本である。そこには素人料理家の私には及びも付かぬ深淵が広がっている。和食の世界にもPがある。

今シューベルトのアンプロンプチュ90-3を弾いている。この曲はPが基本の曲である。単に弾くだけであれば簡単な曲である。しかしただ弾くだけではなんの趣もない。ショパンの名曲エオリアンハープに似て、右手が主旋律となるが、それ以上に時折入る左手の作り出す旋律と合わさって、輪唱のような不思議な効果を生む。うまく弾くと四つの旋律が同時に聴こえてくる。その重なりをPの度合いが担う。絵でいえば遠近法に近い。近くの音は大きく遠くの音は小さく。遠くの景色が青く霞むように、奥の音はPを駆使して密やかに呟かねばならない。こんなことは音楽のプロに言わせれば当たり前のことなのであろうが、不器用な私にとっては大仕事である。一人の私を四人に分裂させねばならないのであるから。

建築を設計してるときにピアノは大きな助けになる。ピアノを弾くと物事に構造がよく見えてくる。特にPの旋律は大切である。前景となる外形は写真映えがする。しかし建築は雑誌やウエブの為に作るものではない。その場に行き体験しなければわからないものである。Pの音が近くにいかねば聞こえないのと同様に、建築の機微もそばに寄らねばわからない。建築の詳細のことを言っているのではない。建物全体を貫く微かな風合いのことである。

建築という楽器は弾くのが難しい。気がつくとテンポが外れて指が滑ってしまう。大きく鳴らせば観客は喜ぶが、余韻は消えてしまう。うっかりWEBとか雑誌の向こうに見え隠れする観客を意識すると、これみよがしに大音響の主旋律を鳴らしてしまって、自己嫌悪に陥ってしまう。

最近少々ストリートピアノに関わっている。田園調布駅である。あまり仕事をしていないので発起人の一人としては失格であるが、気持ちだけは先走りしている。近年学校や幼稚園でアコウスティックのピアノが電子ピアノに置き換わりつつある。憂慮すべき事態である。アコウスティックのピアノの場合、Pを出す為には全身全霊を傾けなければいけない。指先をホンの1ミリ程度凹ます圧力を微妙に感じ取りつつ、1秒間に20のキーを操作する。弦はお互いに干渉し合い、独特の唸りや倍音を醸成する。指からも音が伝わってくる。この感覚は断じて電子ピアノには存在しない。電子ピアノはピアノではない。アコウスティックのギターと電子ギターが別物であるように全く違うのだ。自宅では鰹節を削って味噌汁の出汁をとる。一方世の中では、出汁入り味噌汁なるものが主流である。違う。絶対に許せないのだ。別物である。今子供達はコンビニ食材の化学薬品の味に慣らされてしまっている。今、同様に子供達は人工の音に慣らされてしまっている。電子ピアノの世界に本当のPはない。子供の耳は20kHzを超える超高音を聞き分ける。倍音にしたところで、大人より遥かに広い世界が広がっているに違いない。子供たちには本当の音を聞いて欲しいのだ。スピーカーでは絶対に再現できない音を。時折親子連れがストリートピアノの前で立ち止まる。6歳か7歳の子供が小さな指でブルグミュラーを鳴らし始める。音が転がる。かつてピアノの音に一つ一つ感動したい子供時代が脳裏に蘇る。そう。本物の音は美しいのだ。グランドピアノでなくても良い。例え普通のアップライトピアノであったとしても。例え弾き手が少々下手であっても。

Takaharu tezuka

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