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Public realm とAnother utopia についての備忘録

2025/4/13

日本における公共空間とは何かについて議論したい。英語におけるPublicと日本語の公共或いは公(おおやけ)との間には差異がある。人工知能でPublicという言葉を検索すると、「誰でも使える。」或いは「特定されない社会全体の人々」という類の言葉が表示される。それに対して公共或いは公という検索をすると、「社会全体」「国家や社会全体に関わる事柄」「華族制度における公爵以上の地位」という回答が表示される。似ているようでここには大きな違いがある。大公儀という言葉が明治維新までは徳川幕府を表していた。英語におけるPublicには皆で共用するという前提条件がある。所有権は皆という単語に代表される民衆にある。それに対して、日本語の公という言葉には、民衆に国或いは社会が与えるものという古の前提条件が見え隠れるする。

その違いは都市の広場或いは街路に見て取れる。西欧における街路或いは広場を訪れると、日常的にマーケット、椅子、テーブルで満ち溢れている。マーケットは人々の生活には欠かせない糧であり、店の前に並べられたテーブルや椅子は当たり前の憩いの居間である。それに対し、日本の広場でマーケットを開いたり、道に店がテーブルと椅子を置くことは簡単でない。毎回行政の許可を得ねばならない特例に属するのである。言い換えれば公から許可を頂かなければならないイベントである。家の目の間に広場があっても、店を直接つなげることは許されない。店は広場の中に入り公共に属さなければ営業できない。公と私有の混同は御法度である。境界には高いフェンスが立っている。

その裏には、「公共は誰のものでもある」という権利と、「公共とは誰のものでもない」という倫理の間の大きな隔たりがある。日本各地には市場が残っている。残っているというのは滅びつつある文化であるからである。多くの市場が水路の上に建っている。いうまでもなく水路は公の土地である。不法占拠という物々しい誹りもある。火事も多い。その一方で市場は人々にとってなくてはならない親しみある故郷の光景である。

ここで倫理的観点から西欧の広場の概念を賛美したり、日本の公共概念を批判するつもりはない。必ずしも西欧的概念が優れている訳ではないからである。しかしながら、そろそろ公共と私有の間の壁を見直し、現代社会にあった社会概念を調整する時期ではないかと思うのである。Public realmすなわち公共の領域とは何か。そもそも領域の明確な境界は必要であるのか。

今日本の公共空間はどこに向かおうとしているのか。槇文彦氏のアナザーユートピアという論考がある。この論考は「広場がまず先にあって建築はその次という」表層的な意見ではない。ありうるべき民主主義と理想社会への大いなる憧憬であると思う。

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