育った家のはなし 貴晴編

貴晴
由比と僕が、建築という同じ仕事をしてこられた理由というのは、やっぱり、似たような環境で育ってきたことが大きいかなと思っていて、僕も父親の設計した家で育ったんです。
父親は吉村順三さんの設計した皇居の実設計をやったりしていて、それで吉村順三さんの作品風の家を建てて住んだ。吉村順三さんほどはイケてはいないんだけど、今考えると由比と同じような感覚を体験していたと思うね。

そんな話をしていて思い出したけど、僕の原点にあるのは「手塚商店」という有田にある父の実家の建物の存在も大きいのかなって。築130年くらいの建物で、現在もありますが。
その昔、手塚商店は有田焼きで、東インド会社と交易をやっていたんです。これで財をなし、佐賀銀行の元になる有田銀行を高祖父が創った。曽祖父が佐賀興業銀行にし、祖父が佐賀銀行にしたんです。で、父親は家を継ぐべきだったけど、嫌だと飛び出して従兄がその銀行を継き、その手塚商店は、いまも本家として残り、従兄が住んでいます。

その手塚商店の家が一番大きい時で、1500㎡ぐらいあったと。今はせいぜい500㎡ぐらいですけど、まあ、それでも大きい。最盛期は4世代が暮らし、使用人も含めて100人くらいの人が住んでいたらしく、ものすごい大店(おおだな)。庭がいくつもあって、座敷があったり。僕が子どもの頃、どこまでも家がつながって、終わりがない感じがして。冷暖房はないけど、文化的な豊かさがあって。

曽祖父は建築道楽で、座敷は紫檀、黒壇を使っていて、あちこちに贅が尽くされていて、この手塚商店の家はとにかくすごいし、僕にとって好きな建物です。
でも日本の残念なところは、こういう建築物を大事にしなくなってしまったこと。これが、けっこう大事なことで、由比も僕も、子どもの頃から同じような体験をしてきて、昔ながらの日本の家のよさをある時期から気がつきはじめたんですよ。それはたぶん、ロンドンとかで暮らした経験があるからだと思うんですけど。

ロンドンは、なんてことない都市ですけど、100年を超える煉瓦の家がたくさんあって、そこに住んでいて心地よさがありました。それで、しばらくして日本に帰国したら、日本のほうが当時、お金があって経済も潤っていたはずなのに、ものすごく貧しい生活をしているなあって。いったい何が起きているんだろうと考えてみると、都市ができていないんだなと。
日本はスクラップビルドだからいいと言うけど、僕はそうでないと思っていて、やはり、日本は長く引き継いでいく社会資産があってしかるべきだと。

そのロンドンで暮らしていた時、僕らの給料は宿代を払うと一日10ポンドくらいしかなくて、一食300円位で過ごすしかない。そんな感じだったけど、週末には自転車をこいでリッチモンドパークに行ってテムズ川のむこうに陽が沈むのを見たり、自転車で川沿いを走ったり、お金がなくても、気持ちよくて、たのしい気分を味わえていたんです。
いまでこそ日本も、自転車で走ることができるようになったけど、25、30年前は、そういう環境はほとんど整っていなかった。だから日本はこれからどんどん、そういうのができてくるんだと思うんです。やっぱり建築をつくる時、手塚商店でもそうなんだけど、都市の顔とか、風の抜けとか、町と都市、建築との関係が一体になってできていることは、素晴らしいことだと思うんですよね。

昔の建物というのは、塀がないでしょ。正確には門扉があって塀があるんだけど、いわゆる建物があって、すぐそばに塀があるというのはないですね。建物自体がストリートをなしていて、だから道と人との関係がとても近く、だから互いに町のことを気にしていた。しかし、ある時に道路から建築を下げれば下げるほど、高く建てられるという法律ができ、建物がどんどん道から離れていきました。すると人は、道のことを気にしなくなっていったんですよ。