「エシカルラーメンは美味くない。」このエシカルラーメンという用語は私の辞書に入っていなかった。娘が通っている東京芸術大学の先生から仕入れた一節である。エシカルとはEthical「倫理的な」という意味であるという。要は倫理の限りを尽くして考えてラーメンを作ったからと言って、そのラーメンが美味いとは限らない。「偉そうなこと言ってばかりいると、本業がおろそかになるぞ。」という警告である。まさしく今の建築界はその罠に陥っている。勿論倫理的に正しいに越したことはない。しかし倫理が肥大化して建築そのものを乗っ取る状態は異常である。
本日クロアチアで賞の審査をした。古い物を大切にしながら如何に作品を作るかを審査する立派な賞である。そこでしきりと、「この建築は予算をかけ過ぎはないか」とか、「もっと別の機能であれば、より社会の為に良いはず」だとの意見が出た。私に言わせれば、それはお門違いの批判である。建築とは、出生の正しさではなく、実際に出来上がった結果から評価されるべきである。「お金がない人々の為にローコストで作った集合住宅は、金持ちが道楽で作った美術館より高く評価されるべきである」、という態度は間違いである。もしその評価基準を全てに適用すると、過去の為政者が作った文化遺産は忌むべき存在となってしまう。ルーブル美術館やヴェルサイユ宮殿もその類である。奈良の大仏など論外である。その大仏殿は無駄の極致と言っても良い。オットーワーグナーの駅舎は、税金の無駄遣いになる。
建築家は社会倫理を考えて作品を作るべきであるという。その通りである。私もできることならば、ノーベル平和賞に寄与するような仕事だけをして生きてみたい。戦争を止めたい。貧困を無くしたい。そういう仕事であれば、予算ゼロでも突っ込みたい。しかし世の中はそう甘くない。そういう仕事だけをしていたら、設計事務所は干上がってしまう。所員が路頭に迷ってしまう。さらに言えば「贅沢な建物を作ることは罪であるのか?」私にはそう思えない。値段に関わらず心を込めて作った作品は、いつの日か評価を得るのである。その日は竣工当日かもしれないし、百年後かもしれない。
アナロジーをする。料理にも値段差がある。千円の美味い蕎麦屋があり、一食五万円の割烹がある。それに関わる料理人に上下はない。蕎麦打ち職人が割烹の板前に劣るという眼差しがあってはならない事と同様に、割烹の板前は蕎麦打ち職人より倫理的に劣るという評価も間違っている。大切なことは料理という課題に真摯に向き合う態度である。 大学の教員を始めてすでに28年になる。学内外で数えきれない卒業設計の審査をしてきた。ここ十年ほどのことであるが、その審査会に違和感が生まれた。学生が卒業設計であるのに建物を作らず、それを美德であるかのように評価する風潮が横行している。例えば、密集住宅地の一部を取り壊して、そこに生まれた空隙をリビングと呼ぶ。建築は作らない。ところがその倫理性と論理性が高い評価を得て賞をとる。可笑しいではないか。寿司屋に行って「今日は貧しい人々の事を考えて、贅沢な握り寿司は作らないことにしました。」と言われたら客はどう思うであろうか。もし社会の事を考えるのであれば、美味い寿司を作り、しっかりお代を頂いて、その分然るべき団体に寄付するか、炊き出しの協力をしに出向けば良い。同様に建物を作らない事を倫理と呼ぶのは偽善である。古い建物をリノベーションするのであれば、精一杯考えて美しい空間を作り、元あった建物を祝福すべきである。安かろうと高かろうと真摯に取り組む。それがプロとしての責任であると思う。倫理が全てではない。私は美味いラーメンを作る職人でありたい。