私は建築家であると同時に、長年ピアノを趣味として弾いている。現在復習している曲はショパンの《牧童のエチュード》《幻想即興曲》、そして《バラード第1番》である。今年、クロアチアのGrožnjanで建築の国際ワークショップを担当する機会を得た。町には、かつてスヴャトスラフ・リヒテルが演奏したと言われるコンサートグランドピアノがザグレブから運ばれてきており、私は教授を務める一週間、その楽器を毎日独占して演奏するという幸運に恵まれた。
毎日ショパンを弾いているうちに、一つの素朴な疑問が浮かんだ。私は一体、なぜこの曲を覚えているのだろう。バラード第1番だけでも七千回以上鍵盤を押す。幻想即興曲でも数千回に及ぶ。私は本当に七千回分の鍵盤操作を記憶しているのだろうか。
神経科学を調べてみると、どうもそうではないらしい。人間は一音一音を個別に記憶しているのではなく、意味を持ったまとまりとして情報を保持しているという。このまとまりを、私は以前から「ゲシュタルト」と呼んできた。建築を設計するとき、私は一本一本の柱や梁から考え始めることはない。まず建築全体の生命像が立ち上がり、その全体像に導かれるように細部が決まっていく。音楽も同じなのではないかと思えた。私は七千回の打鍵を記憶しているのではなく、音楽全体のゲシュタルトを身体の中に持っているのである。
しかし、さらに興味深かったのは、そのゲシュタルトがどのように身体へ変換されるのかという点であった。現在の神経科学では、脳は一本一本の筋肉を順番に命令しているわけではないと考えられている。代わりに「Motor Synergy」と呼ばれる協調運動のまとまりを利用しているという。ピアノを弾くとき、動いているのは指だけではない。肩、上腕、前腕、手首、掌、指が一つのまとまりとして協調し、そのまとまりが長い時間をかけて学習されることによって、極めて複雑な演奏が可能になる。さらに小脳は、その運動が少し先にどうなるかを常に予測し、実際の結果との誤差を瞬時に修正し続けている。一方、中脳や大脳基底核は、多くの運動パターンの中から最適なものを選択し、それを繰り返し学習する役割を担っているという。
ここまで理解すると、最初の疑問は少し形を変えた。では、その一連の過程の中で、「私」はどこにいるのだろう。神経科学は現在のところ、「ここが自我である」という場所を見つけていない。前頭前野は計画を立て、小脳は未来を予測し、大脳基底核は運動を選択する。しかし、そのどこにも「私」という細胞の集まりは存在しない。このことは私には非常に建築的に思えた。建築は壁でも柱でも屋根でもない。それらの関係から立ち現れる全体性である。同じように、自我も脳のどこか一か所に存在するものではなく、脳全体の関係性から立ち現れるゲシュタルトなのではないか。
ところが、実際にピアノを弾いている最中の体験を注意深く観察していると、さらに不思議なことに気がついた。演奏中には、私の中に二人の自分が存在しているのである。一人は未来を見ている。「次の小節は難しい」「この先で転調する」「このフレーズをどう歌わせよう」と考え、常に一小節、あるいは数小節先を見通している。もう一人はまったく違う。こちらは未来についてほとんど考えていない。次の音が来る、その直前になって初めて身体が反応する。私の感覚では、その時間差は約〇・三秒ほどである。この二人は未来を見る速度が違うのである。
ところが、この二人には上下関係がない。もし未来を見ている私が、「次はこの指を動かそう」「ここは間違えてはいけない」と細かく命令し始めると、演奏はたちまち止まってしまう。逆に、自動的に弾いているもう一人だけに任せると、音は並ぶかもしれないが、曲全体の構成や物語を失う。つまり演奏とは、一人の自我が身体を支配することではない。未来を見る自己と、現在を生きる自己が、互いを支配することなく協調している状態なのである。
このことを考えながら、私はその日、Grožnjanでバラード第1番を何度も弾いていた。非常に興味深かったのは、この二人が異なる速度で未来を見ているという事実である。一人は数小節先を見ている。もう一人は〇・三秒先しか見ていない。その異なる時間を生きる二人が、一つの音楽を同時につくり続けているのである。そしてさらに不思議なのは、その二人を観察しているもう一つの意識が存在することであった。私はその二人を眺めている。しかし、その観察者が「こちらが正しい」「もっとこう弾け」と介入した瞬間に演奏は崩れてしまう。観察者は支配者になってはいけない。ただ静かに存在しているだけでよいのである。
この構造は、私には建築そのものに思えた。建築にも、都市全体を見渡す時間と、材料に触れながら一つひとつを組み立てる時間がある。設計者が施工を細部まで支配しようとすると建築は硬直する。逆に施工だけに任せれば、建築は全体の生命を失う。異なる時間を生きる二つの世界が互いを尊重しながら一つの建築を生み出すとき、初めて生命が宿る。私は長年、「Architecture of Life」という言葉で建築を考えてきた。生命とは部品の集合ではなく、関係性の中から立ち現れる全体性である。Grožnjanのピアノの前で気づいたのは、その考え方は建築だけではなく、音楽にも、そして人間の意識そのものにも当てはまるのではないかということであった。
私とは、一つの場所に存在するものではない。異なる時間を生きる複数の自己が、互いを支配することなく協調し続ける、その動的なゲシュタルトこそが「私」なのである。だから演奏とは、自分を強く主張することではない。むしろ、自分という複数の存在が静かに調和する瞬間を受け入れることであり、そのとき初めて、ショパンは私の指ではなく、私というゲシュタルト全体を通して音になっていくのだと思う。


