もし私は七千回の鍵盤操作を一つひとつ記憶しているのではないとすれば、音楽というゲシュタルトは脳の中でどのように身体の運動へ変換されているのだろうか。
長い間、私は「運動神経がよい」という日常的な言葉でこの現象を理解していた。しかし神経科学を学び始めると、この表現が必ずしも正確ではないことが分かってきた。実際には一本の「運動神経」が優れているわけではなく、脳の中に存在する複数のシステムが、異なる役割を担いながら同時に働いているのである。
まず、大脳皮質の前頭前野には認知機能(Cognitive Function)が存在する。ここでは、曲全体の構造や時間の流れ、音楽の意味を理解し、未来を予測する働きが行われている。バラード第1番を弾いているとき、私は今鳴っている音だけを考えているわけではない。この先に転調があり、やがて主題が回帰し、最後に大きなコーダへ向かうという全体の物語を意識している。このような時間的な見通しは、認知機能によって支えられている。
しかし、認知機能だけでは音楽は鳴らない。仮に前頭前野だけでピアノを弾こうとすれば、「次はこの指」「その次はこの和音」と一つひとつ考えなければならず、とてもショパンの速度には追いつかない。そこで脳はまったく異なる仕組みを利用している。それが手続き記憶(Procedural Memory)であり、その実体として働くのが運動プログラム(Motor Program)である。
Motor Programとは、一連の運動を一つのまとまりとして保持する仕組みである。歩くとき、私たちは右足、左足、重心移動を一つずつ命令してはいない。同様にピアノ演奏でも、数十個の筋肉の収縮を個別に制御しているわけではない。「このフレーズを弾く」という一つの意図が生まれると、それに対応した運動全体が自動的に起動するのである。
さらに近年の神経科学では、Motor Synergyという概念が重視されるようになっている。これは、複数の筋肉や関節を独立して制御するのではなく、一つの協調したシステムとして動かす考え方である。ピアノを弾いているとき、私たちは指だけを動かしているように感じる。しかし実際には肩、上腕、前腕、手首、掌、そして十本の指が絶えず互いの動きを補い合い、一つの運動として機能している。ショパンのアルペジオが滑らかに流れるのは、一本の指が優秀だからではなく、全身が一つのMotor Synergyとして働いているからなのである。
この協調運動を支えている重要な器官が小脳(Cerebellum)である。小脳は従来、単なる運動の調整装置と考えられていた。しかし現在では、その本質的な役割は「予測」にあると考えられている。ピアノ演奏では、鍵盤を押してから音を確認し、「強すぎた」「弱すぎた」と修正していては間に合わない。小脳は、現在の身体の状態から〇・一秒後、〇・二秒後に指がどこへ到達するかを絶えず予測している。そして実際の結果とのわずかな誤差を学習し続ける。この仕組みはForward Internal Modelと呼ばれ、熟練した演奏者ほど高度に発達していると言われている。
一方、中脳には黒質(Substantia Nigra)という領域があり、ここから放出されるドーパミンは、大脳基底核と密接に連携しながら運動の選択と学習を支えている。大脳基底核は、無数に存在する可能な運動の中から、どの運動系列を採用するかを決定する。あるフレーズを何百回、何千回と練習することによって、その運動系列は徐々に強化され、意識しなくても自然に呼び出せるようになる。つまり、小脳が「どのように動くか」を学習しているとすれば、大脳基底核は「どの運動を採用するか」を学習しているのである。
さらに中脳には赤核(Red Nucleus)が存在し、小脳と運動系を結ぶ重要な中継点となっている。人間では指の精密な運動そのものを直接支配しているわけではないが、腕全体の協調や姿勢の安定化に関与し、小脳が計算した運動を身体全体へ滑らかにつなぐ役割を担っていると考えられている。
こうして考えると、ピアノ演奏は決して「脳が指を動かしている」という単純な構造ではないことが分かる。認知機能が曲全体の物語を見渡し、大脳基底核が適切な運動系列を選択し、小脳が未来を予測して誤差を修正し、Motor Synergyが全身の運動を一つのまとまりとして統合する。それらが循環し続けることによって、初めて一つの音が生まれるのである。
しかし、ここで私が最も興味を惹かれたのは、演奏中に意識が介入すると、かえって演奏が崩れてしまうという現象である。もし認知機能が「次はこの指だ」「ここは間違えてはいけない」と細部へ介入すると、それまで小脳やMotor Synergyが滑らかに実行していた運動プログラムは分断されてしまう。逆に、自動化された運動だけに任せると、曲全体の構造や意味を見失う危険がある。したがって優れた演奏とは、認知機能と運動制御機能のどちらか一方が支配する状態ではない。異なる時間軸を生きる二つのシステムが互いを信頼し、それぞれの役割を侵さずに協調している状態なのである。
私はこの構造を理解したとき、建築との驚くべき共通性に気がついた。建築もまた、都市全体を構想する認知的な時間と、現場で材料を扱いながら微細な調整を繰り返す身体的な時間が同時に存在している。その二つが対立するのではなく、互いを支え合うことで初めて一つの建築が生まれる。脳の中で起きていることは、そのまま建築の創造過程にも重なっているように思えるのである。
おそらく生命とは、このような多層的な時間の協調そのものなのだろう。認知、記憶、予測、運動、感覚は、それぞれ独立した機能ではなく、一つのゲシュタルトを形成するために存在している。ピアノ演奏とは、そのゲシュタルトが音として現れる瞬間であり、建築とは、それが空間として現れる瞬間なのである。そして、その二つの現象を貫いている原理こそ、私が長年考え続けてきた「Architecture of Life」の本質なのではないかと思い始めている。


