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損をしないsharing

2026/7/1

新島学園短期大学の礼拝堂兼講堂「新島の森」にてシンポジウムと講演会を行った。冒頭にインドの孤児院の話、それからもうすぐ完成する奥田牧師の「希望のまち」について語った。学生向けである。その中で孤児院を運営する僧侶ロブサンや奥田牧師は幸せな人だという話をした。
社会活動を伴う「sharing」を喜捨と訳することがある。どうもこの喜捨という言葉の乱用に疑問がある。喜んで捨てる?要らない物を恵まれない人に与えるという意味だろうか。捨てるということは手元になくなるから、損をするということである。持てる者達の美学と聞こえてならない。(仏教における本当の喜捨にはもっと深い意味があるとご指摘を受けました。)
私が見てきた偉人と呼ばれる人々の行為は全く違う。彼らは何も損をしていないのである。その事に私が気がついたのはチャイルドケモハウスという活動に2005年から関わり始めてからである。その後、縁があって津波にのまれた幼稚園の再建、孤児院、暴力団跡地の社会再生活動「希望のまち」、ヒマラヤの孤児院。いつの間にやら、この種の仕事に関わる事になった。しかし我々は他人に寄付するようなお金など持っていない。事務所の所員を養うだけで精一杯である。この種の仕事をしても儲からない。しかし、普通の仕事では手に入れられない何かが起きている。何か素晴らしいことが我々の周りで起きている。お金では買えないもの。
ある学生が「タダ働はオレの性に合わない。」と言ったそうである。なるほどその通りであろう。私も設計料タダで仕事などできない。倒産してしまう。しかし、sharing とはそういうものではない。私が出会った僧や牧師はタダ働きなどと思っていない。得をしている。お金はない。しかし幸せそうである。間違っても損したとは思っていない。「希望のまち」では大きなお風呂を作る。壁には大きな絵を描く。その風呂に入るのが奥田牧師の夢である。そこで大切なポイントは、仲間達と入るということ。供に喜び、供に苦労する。そこに笑いが生まれる。その笑いはお金で買えない。生き方である。
どんな高価なフランス料理であろうとも一人では美味しくない。奥田牧師と入った小倉駅前の酒場「白頭山」がうまい。浜松町の「スタンドフジ」がいい。それは同じ道を見ている人が横にいるから。
そういう対談をしました。
手塚貴晴
(写真を見て目の下のたるみと目尻の皺が気になり始めました。)

奥田 知志
臂 奈津恵
Jhamtse Gatsal Children’s Community

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