音は見えない。写真にも写らない。しかし音は確実に空間を支配している。音のデザインというと音楽ホールを殆どの人々は思い浮かべる。しかしそれだけではないのである。フラッターエコーが生じている学校では、子供達が集中できない。響きすぎる教会ではミサのメッセージが伝わらない。遮音性能が低い集合住宅では、隣や上下が気になって平穏な生活が送れない。建築学科では音のデザインを教えない。とても大切なことなのに。遮音、吸音、音響。この三つは全く別物である。遮音とは、どれだけ音を止めることができるか。吸音とは、どうやって音を吸収するか。音響とは、どれだけ質の良い音を提供するか。
音のデザインの難しいところは、この「三要素が揃えば良いというわけではない」ということである。以前脚本家のお宅を設計したことがある。執筆に集中できるようにと、書斎を作った。ところが使ってくれない。彼は近所のファミリーレストランで仕事をしている。その方が集中できるのだという。ファミリーレストランには子連れが来る。煩い。それを消すために安い音楽もかかっている。
遮音性能が高すぎるマンションは人が住めない。気味が悪くて寝れないという。ホテルも同様で完全防音のホテルルームで寝付けないという人は多い。無響室という空間がある。精密な音の実験の為に作られる特別な空間で、外音が全く聞こえないだけではなく、中は吸音し尽くす為、中にいた人間が作り出す体内音さえ吸い込んでします。この静寂の空間に人々は耐えることができない。この種の空間は人々に異常行動を引き起こすことが知られている為、通常は滞在時間が30分以下になるように定められている。車に乗ると人は不思議な程によく寝る。子供も車の中ではよく寝る。車の中は雑音に満ちている。大切なことは音のバランスである。人間は森のなかった種である。森は多様な雑音に満ちている。静寂は無音ではない。
人の頭脳にはノイズキャンセリングシステムがある。人間には体内音がある。普段の生活では聞こえない。耳を指で塞ぐ。するとその体内音が聞こえてくる。これは外音がなくなると、通常のノイズキャンセリングシステムが働かなくなるからである。水に潜ると体内音が聞こえてくるのも同じ理屈である。バリ島のケチャの儀式に参加させて頂いたことがある。炎の周りに美しくも雄壮な響き。それをレコーディングした。ところが日本に帰って再生すると使い物にならない。ジャングルが発するバックグラウンドノイズが大きすぎて、楽曲がまともに聞こえない。ジャングルの中では楽曲が聞こえていた。それは脳のノイズキャンセリングシステムがジャングルの中では働いていたからである。
学校や幼稚園を設計すると、遮音性能を強く求められることがある。しかし本当に必要なのは遮音ではなく音のバランスである。適度なバックグラウンドノイズがなければ、子供の心は安定しない。フラッターエコーを抑える適度な吸音。自然な風や木々の音。静寂な特別室に寝かせた新生児の多くが障害を持つことを証明する医学論文がある。胎内はバックグラウンドノイズに満ちている。人は静寂の中では生きて行けない。音響はホールだけの問題だけではない。バランスのとれた音環境を作ること。これも建築家の使命である。



