「そうなんですよ。」この奥田先生の一言がこの教会建設の行く末を決めた。「軒」というこの教会堂の骨子はこの瞬間に生まれ、献堂に至るまで一度もぶれることはなかった。最初の会議は東京都世田谷区等々力の手塚建築研究所にて開かれた。会議は二時間ほど続いたのであるが、これが全く時間を感じさせない。短かった。奥田先生とはまるで20年来協働して来たかのように価値観が重なり、全くの議論にならない。船が二艘並んで川を下るように、「如何にもその通りである」とお互いの方向性を確かめ合うだけで、滔々と時間が流れ下って行った。その流れを司っていた方向舵が「軒」である。「軒」という言葉は奥田先生と我々の双方から同時に出た。向かい合ってトランプに興じていて、カードを双方から出したところ偶然にも全く同じであったという情景に近い。私の脳裏に「軒」という考えが浮かんだのは最初の会議の前日のことである。奥田先生のホームレス支援活動について予習していると、どこからともなく「軒」というイメージが閃いた。ミーティングの朝には「軒を貸して母屋に入れる。」というキャッチフレーズまで思いついていた。これはかなり我々にとっては珍しい事例である。通常我々は仕事をお受けすると、最低一月ほどは頭を抱えあーでもないこーでもないと議論を重ねる。東八幡教会のように、まだお会いしてもおらず勿論敷地さえも知らない状況で建物の方針がまとまった例は無い。
日本人の優しさは常に軒の下に凝集していたように思う。日本はとかく雨が多い。夏の日差しも暑い。その難題を軒という実にありふれた道具はいとも簡単に解いてしまう。ところが日本人はなぜかその便利な軒を現代化の過程で時代遅れなしつらえとして殆ど排除してしまった。そもそも軒は日本のライフスタイルに必需品なのである。軒が無ければ雨の日に窓が開けられないではないか。雨は蚊を撃墜するので網戸もいらない。夏の日にひとしきり降る雨は趣がある。軒がなければその趣を愉しむことはできない。縁側とはこの快適なひと時を嗜む為の腰掛けである。縁側でお婆さんがみかんを孫に与えつつ昔話を語り伝える光景は日本人なら誰でも脳裏に浮かべる古き良き日本の風景ではないか。軒が無ければ窓もなく縁側もなくこの日本らしい情景はない。結果としてこの年寄りと孫の会話も存在しない。いまや日本の原風景を代表しているアニメーション「となりのととろ」は雨宿りという舞台設定無しには成立しない。カンタが自らが濡れるのも厭わず雨傘をサツキちゃんへ貸し出す甘酸っぱいシーンや、バス停で傘を差していたらトトロが現れるシーン、全て雨宿りを背景に展開される出逢いである。
日本の大都市では雨宿りができなくなってしまった。まずそもそも現代の建物には軒がない。もしくは軒があったとしても、住宅は軒の道路境界線にそそり立つ壁に遮られていて道とは縁がない。コンビニエンスストアには僅かながらも軒がある。今や軒は希少である。だからその僅かな軒を求めて悪ガキどもが集まるのは当然のことなのだ。コンビニの軒下に集う悪ガキ共は、コンクリート護岸によって産卵場を失った川魚に似ている。他に寄り添うべき軒下が見つからず、結果として群れているのだ。
そもそも日本建築とは屋根なのである。貝殻のような美しいシドニーのオペラハウスを設計したヨーンウッツオンという有名な建築家は、日本建築を屋根だけを空中に浮かせたスケッチで表現した。西洋建築で最も大切にすべき外壁が見当たらず、スルスルとスライドする紙でできた仕切りしか見受けられなかったからである。要は日本建築が建築に見えなかったのである。壁は人を守るために存在する。西洋建築の概念では建築の始まりをシェルターと定義する。西洋人から見れば壁のない日本建築はどうにも頼りない。ところがこの頼りなさこそが日本建築の本質と言って良い。建物の中は外であるが中でもあるのである。これは西洋建築のポーチとは全く違う。西洋建築のポーチの裏には歴とした壁に囲まれた部屋があるが、日本建築は全てポーチと言って良い。日本建築の玄関は曖昧である。日本人は親しい客を縁側に回すという習慣がある。この場合玄関とは格式をあらわす象徴でしかない。伝統的な日本建築の場合グルリと軒と縁側が回っているから、建物全部が入り口といっても差し支えがない。
昭和末期の1980年代、私は数年かけて日本一周の自転車旅行をした。今時の細い洒落たロードレーサータイプではなく、650Bと呼ばれる幅5センチ程度の太いタイヤを履いた重戦車のようなキャンピング仕様である。サイドバックと呼ばれる重いカバンを車輪の両側に下げ、米とテントを積んで貧乏旅行をしていた。テントがあるからにはキャンプ場に宿を定めるのが理想なのであるが、当然の事ながらキャンプ場は街中を大きく外れた山中や海岸にしかない。このキャンプ場というのが、週末やシーズン中以外の期間は存外に寂しい。仲間と連れ立っている期間はともかく、一人で寝ていると人界から落ち一人鬼界に取り残されたかのような疎外感を感じる。終電が出てしまった駅のホームに一人呆然と取り残された迷子の感覚と言おうか、ともかく山のキャンプ場で無数の命に囲まれ自然に包まれる満足感は微塵もない。場違いなのである。人恋しくなって街に向かう。大抵の街には駅がある。長距離を走り抜けようやく駅に辿りつくと、その何の変哲もない蛍光灯の灯りが限りなく優しく潤んで見えた。駅には大抵軒があって終電車が出たのを見計らってマットを広げ寝袋に潜り込み眠った。今では許されない行為である。この終電車が出てからの間がなかなか楽しく、同じく旅する仲間とネットワークを広げる良い機会となった。時々「兄ちゃん楽しそうだねー」というおじさん達がつまみを手に輪に加わることもあった。もしかすると飲み屋の裏で拾ってきた酒とつまみだったのかもしれないが、以外とこれが美味かった。お腹も壊したことはなかった。あのおじさん達にとっては多分なけなしの贅沢を我々に分けてやっているつもりだったのだろうと思う。
驚いたことに奥田先生はアルコールがお好きである。私には牧師という尊称には清廉潔白な印象がつきまとっていて、イエスの血であるぶどう酒を丁寧に口に含むという印象でしかなかったからである。奥田先生が嗜むのは焼酎の水割りである。勿論牧師さんであるから深酒をするわけではないのであるが、周辺の人を巻き込む低気圧のような酒である。私もその種の低気圧は得意とするところなので、自らも低気圧となって合流して、いよいよ周りの方々を巻き込んで陽気な雨を振りしきらせて頂いた。これが実に楽しい。奥田先生と私が丁度50歳という角を共に曲がる一体感の成せる技であるのかもしれないが、部活動の同僚と酌み交わすような平和な空気が流れていた。酒宴は時として夜半を超えて続くのであるが、其の間殆ど会堂の話などしない。全て四方山話である。
東八幡教会というところは驚く程実に民主主義である。数え切れないほどの建築会議を重ねた。この建築会議への出席者が実に多い。東京の百億円単位の一街区の行く末を合議する都市計画審議会並である。20人以上時には50人以上の方々が座られていた。違うのは都市計画審議会がしかめつらしく口をへの字に結んだ大学教授や有識者の集まりであるのに対して、東八幡教会の建築会議は目をキラキラと輝かせたごく普通の人の集まりである。会議はまず我々のプレゼンテーションから始まる。前回の会議からその会議の間の成果を模型やイラストを使ってプレゼンテーションするのである。奥田先生はその経歴に違わず強力な指導力があり、目と口から自然と想像力が泉のように湧き出してくるような人なのであるが、その気概を見事に押さえ込んで「みなさんどうですか?」とまず問いかける。すると当然のことながら普通の人の集まりであるから、「屋根は三角」「高い塔が欲しい」「・・・・」と次々と互いに相容れない純真な意見が噴出してくる。私の話は全然伝わっていない。奥田先生はそのまとめようもない意見を一つも否定せず最後に笑顔で「手塚先生これまとまりますかねー。」と私の方に振って来る。勿論まとまるわけなどないのであるが、奥田先生の分厚い二重瞼の奥に光るつぶらな瞳に見つめられると、何の確証もなく「任せてください大丈夫です」と無責任な応答を精一杯の笑顔で答えざるを得なくなる。部屋の隅で「どうするつもりだろう。しらないよー。」という微笑を我が社の担当者が顔に浮かべている。一見するとこのやりとりは無理難題を投げかけられて困惑している建築家の構図なのであるが、私の笑顔は真実であった。この不揃いな建築会議が娘の通う小学校の学級会に似て実に微笑ましかったのである。さながら奥田先生は投票で選ばれた学級委員長といったところであろうか。会議の後にはいつも金八先生のドラマを見たかのような爽快感だけが残った。
十字架の位置が決まらない。そこで手塚建築研究所の男性所員が実物大の十字架模型を急拵えし、建設中の壁に下げてみることになった。教会員の方々三十人程に加え隣の抱樸館の方々まで物見雄山で繰り出してきた。「もうちょっと右」「もうちょっと上」「・・・」と無数の声がガヤガヤとあがりなかなか決まらない。炎天下壁に張り付いている当事務所所員は汗だくである。所長の私は彼が落ちはしないかと気が気でなく、所長自ら登って対応した。正直なところ私は高いところが嫌いではない。おりてくると年上の教会員の方に「登るの上手いわね。」と褒められて嬉しくなった。数日後事務所で東八幡キリスト教会のホームページを見てみると、壁をよじ登る私の写真が掲載されている。どう見ても建築家には見えない。うっかりしていた。「もっと右!」と大声をあげ続けた奥田先生の意見は教会員の歓声にかき消され、「奥田先生多数決で決まり!」との古参の会員の一言で退けられた。牧師先生というのは大変な職業である。当然の事ながら内部の十字架にもなかなか決まらない。一月ほど上げ下げして漸く決まったら、古参らしき方が現れて「十字架は大きくなきゃいかん」とおっしゃるので「そうですよね」とお答えしてまた悩むことになった。後に奥田先生にその旨を伝えると「Kさんは教会員ではないんですよ。」とのことである。東八幡キリスト教会は不思議なところである。 現在玄関先の軒下には無造作に4台ベンチが置かれている。元々の教会に置かれていた椅子で意匠上は現在の教会建築にはまったくそぐわない。奥田先生ご自身は審美眼が確かな方である。当初から問題と感じていながら止めるに止められず困っておられたに違いない。最初の洗礼式の後、「これどうですかねー。」と申し訳なさそうに私に問いかけて来られた。多分私から「これはこの建築にはそぐわない。」という一言を引き出し、即刻「手塚先生が良くないとおっしゃっている。」と大義名分を得て撤去されるつもりでいらっしゃったのであろうと思う。それがわかっていながら私は意地悪く「聞かないで下さい。」と答えさせて頂いた。実のところ、私はそのベンチが邪魔者どころか微笑ましく思えたのである。聞けば礼拝の後教会員の方々が屯される場になっているということである。軒の教会冥利に尽きることではないか。この軒は人が屯する為に設えられたのである。軒の下は神聖な空間ではない。口やかましく注意されたり時間に追われることのない自由勝手の領域であって欲しいのである。勿論建物の意匠に相応しくかつ座りやすい椅子にいつの日か入れ替わることが望ましいが、長年磨かれ愛でられてきた椅子を捨てろと部外者の私が言うことは間違いである。。 東八幡キリスト教会は大きな軒であってほしい。寄り合い所帯の多種多様な人々が一つ屋根の下で押し合いへし合いしている光景である。「軒を貸して母屋に入れる。」軒の下に分け隔ては無いから、自然と集う人は雑多になる。東八幡教会の魅力はその雑多さの醸し出す多様性にある。会堂のベンチの両側には板が付いている。この板には構造的な理由もあるが、私としては両側に板が付いていないと、元気な教会員の方々がはみ出してしまって収拾がつかなくなるのではないかと思ったからである。一人掛けの椅子に行儀良く一人一人静謐に腰掛けている様は「東八幡らしくない」と思うのである。洗礼槽は床に切られている。洗礼をガヤガヤと皆で周りから祝う構図が「東八幡らしい」と思ったからである。十字架は錆を発しつつ歳をとるコールテン鋼である。ピカピカのステンレスは「東八幡には似合わない」と思ったからである。
9月7日に新会堂で初めてのバプテスマが行われた。教会員でもないの私へ内部の十字架について指示を出していたKさんである。バプテスマは正午に行われた。天井に切られた天窓から光がバプテストリーに差し込み、十字架の側面が金色に輝いた。Kさんを教会員が取り囲み祝いの儀式が行われた。東八幡教会は美しい。ただし私が美しいと表現しているのは建築ではなく、教会の活動である。今度の会堂はその教会の中に元々在ったのである。私はそれを掘り出したに過ぎない。