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建築の値段

2024/1/9

建築という芸術には値段がついていない。他の芸術の領域とは全く違う。建築の値段は建設にかかった材料費や手間賃で決まる。もちろん悪い設計の建物の価値は時間が経てば下がる。快適であれば値段が下がりにくい。しかしそれは実用品としての機能に起因する評価であって、芸術的価値による変動はごく僅かである。日本で最も受賞しにくい建築設計の賞は日本建築学会賞である。日本建築学会賞が最も優れた作品に与えられているというかというとそうではないかもしれない。作品の質と同時に時勢という魔物が影響する。それでも日本一である。毎年建設される建物は100万件を超える。その作品が不動産価値の変動が理由でいとも簡単に取り壊されてしまう。建築家の設計料は名声に殆ど左右されない。有名建築家が豪勢な家に住んでスーパーカーを乗り回しているのはドラマの中だけである。少々有名になって成功した建築家がポルシェやアルファロメオを乗り回していることがあるが、私の知りうる限り中古である。

「純金で茶碗を作ったって、今の金で五十万か百万円で出来るのです。ところが片方の茶碗は土の固まりですが、この方が純金の茶碗よりも、もっと高い。」と魯山人は言った。そういうことは建築で起きない。たとえフランク・ロイド・ライトが設計した建物であろうと、巷の不動産価値と大差ない価格で取引されている。日本の場合はむしろ芸術的価値が高いことが災いして、売れにくいという現象さえも起こる。思い当たる原因は幾つかある。一つは建築の値段が高いこと。幾つも買い集めるのは大変である。住宅でさえ不動産を含めると安くて5000万円、都内だと一億円をくだらない。一億円の品物を気軽に買える資産家は少ない。茶碗はいくら高くてもたかがしれている。国宝級の天目茶碗で50億円という異常な例はあるが、それは芸樹的価値というよりも投機目的としての価格と言って良い。現代の陶磁器の中で100万円を超える物は稀である。その100万円の作品が芸術家の没後1000万円に値上がりしたりする。最初から50億円の建築は巷に溢れている。建築は最初から高価である。第二に建築は大きい。建築は戸棚にしまっておくことができない。ましてや金庫に入らない。第三に地面に根が生えているから動かすことが容易ではない。例え移設に成功したとしても、同じ価値を持たなくなる。フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルは移設されたが、もはや抜け殻に過ぎない。それは皇居前にあってドアマンが恭しく迎えてくれる日常があってこそ、あるいはそこに寛ぎを求めて足を運ぶ老夫婦が一杯のアールグレーを香らせる日常があってこそ価値があるのだ。帝国ホテルの石そのものに価値はない。

建築は物ではない。ましてや芸術品ではない。建築は生きていること自体に価値がある。人生と同じである。例え誰かが一生涯をかけて一兆円の資産を築こうと、100円を残さず人知れず去った老人の価値とかわらない。建築は人と同じく生きていることそのものに意味があるのだ。建築の所業。黄金の建築は存在しない。所詮建築は土塊である。

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