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風姿について

2024/4/26

秋川は神奈川と東京の県境、檜原村の三頭山に発する沢を源流とする。風姿はその秋川と盆堀川の落合にあり、西には天然の要害を生かした城山を背負っている。 峻険な渓谷は清流を刻み、唯一無二の絵巻を彩る。

風姿という屋号は世阿弥が残した風姿花伝から学んだ。三筋の流れが出合う地勢は、東西南北の微風を掴み地霊となす。土は秋川の水を含み、稀な気を溜めている。水気は立ち黄鋼色の暁へと昇華する。紅葉と黄葉は恐ろしいまでに艶やかに輝き、留まる刻を知らない。雪の懐に隠れ時折魅せる川面は黎色。その全ての贅沢がこの瀬に棲んでいる。

その勇壮かつ可憐な地合をしつらえる屋根がある。軒先は低く深い。床から五尺に抑えた。五尺は日本人の平均的な目線の高さである。その設えの先に秋川の渓谷が目深に広がっている。能であれば舞台であろう。舞台であるから外である。場を規定する柱はない。十三間の軒先は浮いている。竹林の中庭を背負い舞台に座を獲れば、人智で描くことのできない悠久の絵巻が風姿となって顕れる。ここには限りを尽くした軒下の贅沢がある。ここでは雨も雪も酒肴となる。晴れの日は尚のこと輝かしい陽が軒裏に映る。

地下水が引かれている。冷泉とは言わない。清流を岩土葉が濾し地中深くに至った秋川の水である。その水を縁が見えない風呂に満たしている。風呂は職人が丹念に数ヶ月をかけて磨き上げた黎の色である。黎とは陽が昇る一瞬前の黒。この別棟の親である黒茶屋の黒でもある。水を満たした浴槽は一枚の石となり、谷の樹々を映し無限の幻を編む。

建築は編物である。二万本の細板を切り出し、毛筋程の僅かな隙間を残して貼り並べている。内は横貼り。外は縦貼りである。内は左右に移ろう水を追い、外は縦に降る雨を凌ぐ為である。軒裏は細い木片を固めた素材を黒染。敢えて桟木で押さえ込んでいる多孔質の天井は反響を抑える為にある。谷川の響きはそのまま愛でるには鋼過ぎる。基本は木造であるが、軒の構造には鉄を仕込んである。先端の構造技術が成す妙技。木造では成得ることができない広がりの軒を実現する為である。この建築は数寄屋でない。様式は伝統に裏打ちされた仕来りである。ここは現代建築でもない。求められたのは秋川渓谷の風土に住まう知恵を求めたごく当たり前の姿である。過去や未来と無縁の千年が相方である。二枚の襖絵がある。暁と宵である。暁は陽が昇る一瞬前の微かな輝きを写し、宵は帷が降りる前の予兆の色合いに染められている。軒先のしつらえと繋げて味わって頂きたい。しかしながら、そのいずれも目の前の実物に適う事がない。それ程に希少な感動がこの場にはある。

ダイニングには重い一枚板のテーブルが座っている。そこに秋川渓谷にのみ依存する唯一無二の料理が並ぶ。贅沢な素材は使わないという。水も風も食もそこにあるもの。贅沢のない贅沢の極。それがある。

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