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不便な都市

2026/1/13

(都市計画を見たことのない学生達へ)

アーバンデザインとシティープランニングという二つの言葉がある。英語ではUrban designと City planning である。これが日本では混同されている。アーバンデザインというのはどういう街並みを作るかということ。地べたを歩き回り路面店で時を過ごし、ひと時の堕落や幸福を感受する感性が大切である。都市計画というのは空を舞う鷹のように世界を俯瞰し、神のように世界を創生することにある。法律と実践の間に長い道のりがあるように、実際の都市計画はこの両方の色合いの濃淡を嚥下せねばならない。ニューヨークであればセントラルパークという素晴らしいシティープランニングがある。ニューヨークのセントラルパークは都市の肺臓である。東京にも明治神宮、神宮外苑そして皇居という緑がある。その一方で、下北沢、キャットストリート、中野サンモール、新宿ゴールデン街のような、親しみ深い界隈がある。

日本というのはそれなりに古い国でもあるが新しい国でもある。古いというのは八百万の神代から継承する守るべき街並みである。一方で、日本は第二次世界大戦あるいは大東亜戦争という破局がもたらした再決算を耐え忍んだ。残念ながら日本という国はこの二つが繋がっていない。日本の都市計画は戦後処理に失敗していると言っても良いのではないかと思う。進駐軍の支配下において、私とその前の世代は日本文化の否定を刷り込まれた。その呪縛から未だ日本は抜けきれていない。確かに日本の大都市は爆撃と焼夷弾により焼き尽くされたが、全部ではなかった。特に京都に至っては殆どが無傷で残っていた。実は大東京と吹聴されていた都市も、大半が残っていたのである。何一つ残さない状態まで破壊されたドレスデンとは違う。ところがドレスデンは美しく復興した。京都や東京にはお世辞にも美しいとは言えない鬼子が生まれた。理由は洗脳にある。残されていた美しき文化を破壊したのは、洗脳された日本人自身であったのである。今の日本はそれを取り戻そうと躍起になっている。

昔ながらの都市を作り直すと日光江戸村になってしまう。映画のサムライタイムスリップの世界である。その気になれば水戸黄門の金さん角さんの世界を再現することは可能である。勿論、萩、倉敷あるいは有田のように大半が残っている街はそれで良い。しかし今それを東京で演出することは滑稽である。文化がもはや継承されていないからである。

本来、都市は時間が醸成する菌糸である。そうあるべきと言って良い。粘菌という種がある。宮崎駿氏が描いたナウシカには、その世界が誇張されながらも真に迫った演出で描かれている。粘菌の断片は意志を持たないかに見える。ところがある大きさになると迷路を記憶して思考する能力を有している。自然発生した都市の成長はそれに近い。個々の建物は意志を持たないにも関わらず、いつの間にやら街路が形成され、それとなく生命力あふれる商いが花開くのである。

それが現代の都市ではその生命力が街路から消えてしまうことがある。そういうことはしばしば大規模開発で起きる。その最大の原因はシティープランニングを司る神が、空から降臨して、民の生活を理解せずに全てを統御する行為にある。そういう都市では菌糸が成長しない。神の目は必要である。問題はその神が正しい視点を持っているかどうかということである。現代社会でそれをさらに困難にしているのは、かつての為政者あるいは現代の行政という法の執行機関に加えて、巨大資本という新しい神がテーブルについたことにある。

正しい神は民の自由を許す。そういう格言はない。君臨すれども統治せず。しかし成功する為政者とはそういうものであると思う。民の視点を持たない神は慕われない。街路における民とは、行き交う歩行者であり、幟や看板で人を誘う商人である。宅地における民とは家の前を履き清め、何気ない日常会話を交わすご近所である。そういう民の所業は雑然としている。ただその無秩序がある大きさに成長すると、粘菌のように不思議な大意を持ち、繁殖を始めるのである。繁殖には苗床が必要である。それが現代の開発では建物内部に留まり、那辺へと成長しない隔離された苗床が生まれることがある。

ここで大規模開発が悪いというつもりはない。新陳代謝しない都市は消えゆく運命にある。都市が昭和のままでは困るのである。那辺へと賑わいという菌糸が伸びる苗床を作れているかどうかという問いがある。ここで、どの開発が成功していて、どの開発が望ましいという論争に巻き込まれることは避ける。開発に関わった人々にはそれぞれの立場があり、成功不成功は個人の責任に帰すことが難しい。日本の都市は戦後の復興を終えていない。大切なことは今後どうやって正しい方向に進むのかということである。どれが成功していて、どれが成功していないのかは、その場に出向いてみればわかる。上手くいっていない開発の街路は閑散としている。良き開発は建物の中だけではなく外も賑わっている。人々は正直である。私が論う必要はない。

良い都市を作る仕組みは簡単である。人が歩ける街である。小さな路面店を並べる。大規模建築を作るのであれば、路面店を道に開くか路面店で包めば良い。道路面に壁を作らない。延々と続くショーウインドウも同じである。路面店の設は自由に任せる。同じデザインの建物が延々と並ぶ道はつまらない。道路は広くしない。できれば4メートル程度。広くても6メートル程度であれば、対面の店に行き来しながらそぞろ歩きができる。

避難に必要な道路はそんなに多くないはずである。いつの日からか都市計画は道路計画になった。アーバンデザインより先に道路計画がある。確かに災害時や交通の便のためには広い道路は必要であろう。しかし、多少の混雑は楽しい。道の歪みは愛でるべきである。歪みは特徴である。曲がっていた街路をまっすぐしたり、踏み切りを無くした途端に、商店街が潰れるのはよくある話である。都内の私鉄が地下鉄につながる直通運転へと移り変わりつつあり。確かに便利にはなるが、都市と郊外をつなぐ終着駅の賑わいは消え、都心への一局集中が起きる。不便益という。便利になる反面で失われる風情がある。現代社会はすでに便利である。もし都市に混沌を取り戻せるのであれば、多少の不便は愉しいのではないのではないだろうか。

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