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建築の調律

2026/3/23

パリのオステルリッツ駅の大屋根は軽い。数あるヨーロッパの名駅舎の中では然して特筆されることがない。ところが間違いなく美しいのである。ヨーロッパに生まれたこの駅舎が不憫でならない。東京であれば重要文化財に祭り上げられて、名だたる国立大教授達が長大な研究論文報告書を認めているだろうが、美の巨人が立ち並ぶパリにあっては、道端の石畳の合間に自生する雛菊程度の位に甘んじている。パリを歩き回ると、この程度の大屋根は無数に存在する。 

その美の根源は貧しさにあると思う。今にも増して当時の鉄は高価であった。よって時計職人が一つ一つの部品を一つに手塩にかけ削り出すように、無駄なく鉄を余さず大切に編み上げている。言い換えれば、一分の無駄もないのである。構造技術が進化した今となっては、この程度のスパンを飛ばすことは大事ではない。しかし当時は大仕事であったに違いない。釣り上げる為の巨大な重機もなかった。だから軽くする為には多少の手間は惜しまず手が混んでいる。鋳鉄であろうが、隅々には力学を讃えるかのような彫塑的な詳細がついている。飾りが大切であると主張するつもりはない。しかし、装飾したくなるような思い入れが、生き物に張り巡らされた毛細血管の様に、端部まで行き届いているのである。 

同じ日に、ここで敢えて名を挙げることは避けるが、醜い構造物を見た。世界的に有名な建築家による現代の作品である。インスタグラムでは映えるであろう優美な外形をしている。しかし近寄ると重厚で醜悪な構造がそこらじゅうに露呈していた。構造と形態に全く関連性がないのである。部分的に木材を使っているが、力学の観点から見ればなんの長所もない使い方をしている。そういう醜さは古い駅舎の間には存在しない。無駄が許されないからであろう。建設に至る前に淘汰されてしまっている。航空機の世界では現代でもこういった醜さは存在しない。構造上の無駄が許されないからである。設計の精査を重ねる過程で消えてしまう。建築の場合は潤沢な資金がある場合はそういう歯止めがかからない。レンゾ・ピアノやポール・アンドリューのような卓越した匠の手にかかれば、蝶の羽のような有機的な形態に昇華したであろう。残念でならない。 

構造に建築の美は宿る。構造の奏でる美は、音楽おける音階や和音の構成と同じである。バッハにおける和音にせよ、コルトレーンによるシンコペーションにせよ、楽譜を読むと、建築における美しい構造の曲げモーメント図のように骨相が透けて見える。美しいと思う音の構成が大多数を魅了するように、人は構造の美しさを感じ取る力を持っている。撓る木の枝やバレリーナの指先の仕草に魅せられる人の心は、美しい建築構造に魅入る人々の心と同じである。水面を滑る帆船には無数の張力を負担する支索(rigging)がある。その構造は誰が見ても美しい。 

建築の評価が本体から離れ、インターネットという抽象的な媒体に依存するようになって、構造の美学は一義的な要素ではなくなってしまった。インターネットという仮想空間上のイメージには重力が存在しない。重力が存在しないと形態に制限はない。その自由奔放さをインターネットで建築を鑑賞する側を創造性と勘違いをする。その誤った評価が市場を支配し鬼子を生み出すと、恐ろしいほどの不調和音が生じる。その不調和音をスマートフォンの画面は共有しない。 

建築における貧しさとは、単なる経済的な制約ではない。それは、形態と構造と素材とが互いに嘘をつくことを許されない状態のことである。限られた資源の中で、ひとつひとつの部材に意味を与えざるを得ない状況において、設計者は選択の自由を失うのではなく、むしろ選択の責任を引き受けることになる。その責任の集積が、結果として構造の純度を高める。美とは、その純度が偶然に立ち現れる瞬間である。 

古い駅舎は美しい。その美を鑑賞する都度に思うのである。建築の形態はシンプルで良い。究極の形態は四角か丸である。なかなか勝てない。そういった建築を支える構造の美はその場に行かねば伝わらない。 

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