先日カーネギーホールにて現代音楽を聴いた。体験したと言っても良いのかも知れない。カーネギーホールで行われるクラシックコンサートのチケットと言うことで、後先考えずに購入した。不可思議な不調和音の連続。一曲だけかと思ったら最後まで幽霊屋敷のような音が鳴り響いていた。ドン。チンチン。ヒュー。気味が悪い。リラックスつもりで行ったコンサートが勉強になってしまった。現代音楽は、クラシックの系譜である。クラシックであるから、第一バイオリンもありトランペットが鳴り響きドラムが鳴る。大黒達也氏によれば、人の脳というのは常に不確実性すなわちエントロピーを追い求めるのだという。その姿勢こそが人間という種を育成した好奇心であり、文明を作り上げた根幹とも言える。しかし、何度経験しても現代音楽というクラシックのジャンルは、私の心を揺り動かさず、凝りすぎて好きになれなかった料理のように、不快な空腹感だけを残す。口直しに立ち寄る道端の安いラーメンが欲しくなるのでる。現代音楽というクラシックがわかるようになりたいという向上心は脳裏に溢れている。かつて何とか哲学書を読めるようになりたいと願っていた大学生時代のように、込み上げるアクビをこらえて目を一杯に開く。しかし哲学書とは違い現代音楽はなかなか心を開いてくれない。
私は厳格なクラシック原理主義者ではない。自分は下手なショパンをもっぱら弾いて家族に迷惑がられているが、クイーンズのロックは私をサンフランシスコの裏町に連れていってくれる。松任谷由美が唄う浮気の話は楽しい。ジャズピアノは大好物。RINAというピアニストをサポートしている。ゴスペルやソウルは走馬灯のように私の人生を回転させる。しかし現代クラシックなるジャンルは難しい。理解できない自分が実に不甲斐ない。
特に無調という概念は難しい。実のところ、ロックからクラシックに至るまで、殆どの音楽には音階があり和音がある。アルベルト・シェーンベルグの12音技法はその和音の概念を壊し、さらに音階そのものを否定した。
ここで問題になるのは何故壊す前に和音や音階という理論が時代や民族の壁を超えて存在し続けてきたのかということである。人は和音や音階は後天的に刷り込まれた概念であるという。しかしそれであるならば、和音や音階が時代や民族を超えて存続している説明がつかない。和音や音階は数学的な理論の上に成り立っている。倍数から考えると多少のズレはあるが調整の範囲である。むしろその多少のズレは感情を励起するのに役立っている。和音や音階は人類の長い進化の過程の中に織り込まれた遺伝記憶と言える。
不調和音は苦味である。多少の苦味を人は乙な趣と捉える。ただしそれは膳の旨味が整えられていた上に成立する。単に旨味だけを抽出しても感動を誘う一皿が生まれないのと同様に、苦味だけの膳は牛馬も食わない。要はドラマである。映画も多少の悲劇は良いが、悲劇だけを羅列しても名作にはならない
バッハからブラームスに至る音楽は調律が導く整合性の美の結晶である。教会の中の音楽はそれで良い。しかし現実は整合とは程遠い。モーツァルトはそこに多少の不安定さを織り交ぜ劇場型の美学を完成させた。時代を飛んでショパンに至ると、多少の不協和音と意外性を取り入れることで、より意外な出来事が次々と起きる人生を描き出すことに成功した。ショパンのバラード1番はその完成系であるかのように思う。
ここで音楽史を語るつもりはない。これはあくまでも私の私見であり備忘録でもある。ここから先はこの音楽に対する私見をアナロジーとして、私の専門分野である建築について語っていきたい。美は合理性の近傍にあるという。音楽と建築の間には驚くほどの類似性が見受けられるのである。




