「7世紀にアジア大陸から大規模建築の技術が導入されると、途方もない建築ブームが引き起こされ、木材伐採が異常に増加する。『古代の略奪(ancient predation)』」
「17世紀以前の日本の森林の歴史は、一般的に言われる採取林業(exploitation forestry)の時代ということになろう。つまり林地の利用者が林地の保護や収穫後の回復にほとんど関心を払わない林業である。しかし16世紀末の内戦の終結とともにこの時代は終わりを告げる。ついで木材の消費が未曾有の規模で全国的に増大し、『近世の略奪(early modern predation)』期がやってくる。日本が否応なしに育林事業(regenerative forestry)の時代に突入するのはこの後である。」
コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』
昨今、木造は環境に優しいというスローガンが当たり前のように掲げられるようになった。手法を間違えなければ、それは正しい。しかし、そこに「大規模木造」あるいは「木質化」という言葉が加わり、木材を大量に使うこと自体が環境への貢献であるかのように語られ始めると、少し怪しくなってくる。木材は大気中の二酸化炭素から取り込まれた炭素を蓄えている。だから建築に木材を使えば、建物が存続している間、その炭素を大気から隔離しておくことができる。鉄やコンクリートに比べて製造時の二酸化炭素排出量を抑えられる場合も多い。炭酸ガスの排出量という定量化可能な数字だけを見れば、木材を大量に使うほど環境に優しいという論文さえ出来上がる。しかし、そこにはしばしば「時間」という概念が抜け落ちている。
木材は炭素の塊であると同時に、時間の塊である。一本の木が建築に使える大きさになるまでには数十年、時には百年以上かかる。その木を伐って建築に使うということは、森が長い時間をかけて蓄積したものを一瞬にして取り出すことである。もちろん、伐った後に新しい木を植えれば森は再び成長する。しかし、昨日伐った木の代わりに今日苗木を植えたからといって、昨日までそこにあった森が今日戻ってくるわけではない。「再生可能資源」という言葉は、この時間を忘れさせる危険を持っている。再生可能であるということは、いくら使ってもなくならないという意味ではない。使う速度が再生する速度を超えないということである。百年かけて育った木を伐り、三十年で壊される建築に使い、それを繰り返していけば、どれほど「再生可能」という名前を付けても持続するはずがない。
日本の森林の歴史を見ると、そのことがよく分かる。コンラッド・タットマンが描いているのは、日本人が昔から自然と共生し、森を大切にしてきたという美しい物語ではない。古代の寺院や都城の建設は膨大な木材を必要とした。中世から近世にかけても城郭、寺社、都市の建設が続き、森林は繰り返し収奪された。森林が荒廃し、木材が不足して初めて、人々は伐採を規制し、植林し、山を管理し、次の世代のために木を育てるようになった。日本の森林は、自然を愛する心だけによって残ったのではない。森を使い尽くしかけた経験と、そこから森林を再生しようとした長い努力の結果として残ったのである。現代の日本は、国土の約三分の二を森林が覆う、世界的に見ても森林の多い国である。しかし、それを当然の風景だと思ってはいけない。この森は、何百年にもわたる失敗と試行錯誤の末に受け継がれてきたものである。
ヨーロッパを旅すると、美しい田園風景が延々と続いている。畑があり、牧草地があり、その間に集落が点在している。それは確かに美しい。しかし、その風景を別の時間軸から眺めれば、かつてそこに広がっていた森林を、人間が長い時間をかけて農地や牧草地へ変えてきた歴史を見ることもできる。美しい田園風景の背後にも、森林を人間の生産空間へと変換してきた長い歴史が潜んでいる。さらに歴史を遡れば、森林の減少、土壌の流出、水資源の悪化が社会を弱体化させた文明も少なくない。森は無限ではないということを、人類は何度も経験してきたのである。
だからといって、木を伐ってはいけないという話ではない。むしろ現在の日本には、伐るべき森もある。戦後に植林された杉や檜の人工林の多くはすでに利用期を迎えている。適切に伐採し、使い、再び植えることによって維持される森林もある。木材を使わなければ森林が守られるというほど単純ではない。重要なのは、どこから来た木を、どれだけ使い、その後の森をどうするかである。天然林を伐って得た木材と、計画的に管理された人工林から得た木材を同じ一立方メートルとして数えることはできない。伐採した後に確実に再造林される木材と、森が失われたままになる木材も同じではない。そして百年使われる建築に使われる木材と、二十年後に解体され焼却される木材も、同じではない。
ところが現在の環境評価では、こうした違いが一つの数字の中に押し込められてしまうことがある。「この建築には何立方メートルの木材が使われ、何トンの二酸化炭素が固定されています」と説明される。そうすると、いつの間にか木材をたくさん使うこと自体が環境性能になってしまう。これはおかしい。木材が貴重な環境資源であるならば、競うべきなのは使用量ではない。むしろ、少ない木材からどれだけ大きな働きを引き出せるかを競うべきである。一本の木からどれだけ豊かな空間をつくり、それをどれだけ長く使うことができるか。それこそが建築家の技術であるはずだ。大規模木造そのものを否定するつもりはない。大きな建築であっても、適切に管理された森林から木材を調達し、木という材料の性質に即した合理的な構造をつくり、長期間使われるのであれば意味がある。しかし、木材を大量に積み重ね、巨大な柱や梁を見せ、それ自体を環境建築の象徴として提示することには違和感がある。大量に使って驚かせる時代は、もう終わらせるべきである。
木材には木材に相応しい構造力学がある。木材のヤング係数は低い。「木材は軽いのだから、ヤング係数が低くても、その分部材を太くすればよい」という理屈もある。しかし、これは単純すぎる。建物に作用する荷重は構造体そのものの自重だけではない。人や家具、設備などによる積載荷重もあり、それらは木造だから軽くなるわけではない。高層化すれば下層の柱が負担する荷重は大きくなり、ヤング係数の低い木材では必要な断面も大きくなる。梁も同様である。スパンが長くなれば、たわみを抑えるために梁成は大きくなる。木造には木造に相応しいスケールがある。
その弱さをただ太さで補い、あるいは人工関節のような金物を増やすことにも限界がある。木造において接合部は本質的な問題である。木材には繊維方向があり、力の伝わり方に強い指向性があるからである。曲げモーメントやせん断力をどのように受け渡すかという問題に対して、古来より匠たちは創意工夫を凝らしてきた。東アジアでは斗栱や肘木が発達し、欧米ではトラスをはじめとする木構造が発達した。現代にも新しい木組みの可能性がある。その工夫の中にこそ、木造の美学が生まれる。
必要な部分に鉄骨による補強を入れることもよい。鉄は小さな断面で大きな引張力を負担できるため、木材の性質を補う材料として有効である。しかし、だからといって性質の異なる構造を無造作に混ぜればよいということではない。とりわけ鉄筋コンクリート造と木造では、重量も剛性も固有振動特性も、地震時のエネルギー吸収の仕方も大きく異なる。鉄筋コンクリート造の部分に木造の梁を架けることはできても、鉄筋コンクリート造部分が負担すべき水平力を安易に木造部分へ流すことはできない。それぞれの構造系が何を負担し、地震時にどのように動くのかを明確にしなければならない。材料を混ぜること自体が合理性なのではない。力の流れを理解した上で、それぞれの材料に相応しい役割を与えることが合理性なのである。木材についても同じである。力学を理解せず、荷重の問題を木の量だけで解決しようとすれば、不経済になるばかりでなく、木材の浪費につながる。
そして、もう一つ忘れてはいけないのが建築の寿命である。最近は「リサイクルできる木材」という言葉もよく聞く。しかし、リサイクルできるから壊してよいということではない。百年使える柱を三十年で取り壊し、粉砕してチップにしてしまえば、その柱が持っていた価値の大部分は失われる。燃料として燃やせば、長い時間をかけて木が蓄えた炭素は再び大気へ戻る。最も良いリサイクルは、リサイクルしないことである。建築をそのまま使い続ける。傷んだところだけを直す。用途が変われば改修する。それでも使えなくなった時に初めて、柱や梁を部材として別の建築に使う。それもできなくなって初めて材料として再加工する。燃やしてエネルギーにするのは、そのさらに後でよい。法隆寺の木材が千年以上残っていることを考えれば、木材は決して短命な材料ではない。木は生きている時だけ長い時間を持つのではない。建築になってからも長い時間を生きることができる。だからこそ、一度建てたものを簡単に壊してはいけない。
江戸時代後期の日本列島には、およそ三千万人の人々が暮らしていた。現在の人口はその約四倍である。単純な人口比較だけで木材需要を論じることはできないが、現代人一人が占有する床面積も、消費する物質の量も、かつてとは比較にならないほど大きい。もし一億人を超える人々が暮らす都市が、「木造は環境に優しい」という理由だけで木材を際限なく使い始めたら、その需要は日本の人工林だけで完結するとは限らない。世界の森林へとつながっていく。建築の木質化は、おそらく止まらない。それを止める必要もないと思う。しかし、だからこそ木材を大切に使わなければならない。
森には森の時間がある。一本の木には、一本の木が育つ時間がある。建築にも、本来、人間一人の寿命を超える時間がある。その三つの時間を無視して、短い経済の時間だけで木材を扱ってはならない。木造だから環境に優しいのではない。どこで育った木なのか。伐った後に森は再生するのか。その木は本当に必要なのか。もっと少ない量でつくることはできないのか。そして、その建築を何年使うのか。そこまで考えて初めて、木造は環境に優しい建築になり得る。
一本の木が百年かけて育ったのであれば、私たちはその木とともに百年という時間まで受け取っている。木材を使うということは、森から物質をもらうことではない。森から時間をもらうことである。その時間に見合うだけの建築をつくること。それが、木を使う建築家の責任なのだと思う。





