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異なる時間を生きる

2026/8/1

ピアノを弾いているとき、私が最も驚いたことは、脳の働きそのものではなかった。もっと根本的な発見があった。それは、私の中で働いている複数のシステムが、それぞれ異なる時間を生きているという事実である。そしてさらに重要なのは、そのどちらも他方を支配していないということであった。

演奏中の私は、一人ではない。未来を見渡しながら曲全体の構造を考えている私がいる。その一方で、次の音が訪れる直前まで未来を意識せず、ただ身体の感覚だけで演奏を続けている私もいる。最初は、この二人の関係を「意識が身体を支配している構造」と考えようとした。しかし、自分の演奏を何度も観察していると、その理解は間違っていることに気づいた。未来を見ている私が身体に細かな命令を出し始めた瞬間、演奏は止まってしまうのである。「ここは間違えてはいけない」「次はこの指だ」と意識した瞬間、それまで自然に流れていた音楽は途切れてしまう。逆に、自動化された身体だけにすべてを委ねると、今度は音楽全体の方向性を見失う。つまり、どちらか一方が他方を支配した瞬間に、音楽は生命を失ってしまうのである。

このことを考えているうちに、私は次第に、これはピアノだけの問題ではないと思うようになった。むしろ生命そのものが、このような構造を持っているのではないかと感じ始めたのである。

近代科学は、世界を階層構造として理解してきた。細胞が集まって組織となり、組織が集まって器官となり、器官が集まって身体となる。あるいは、大脳が命令を出し、身体がそれに従うというように、上位のシステムが下位のシステムを支配するという考え方である。この考え方は工業製品を理解するには非常に有効であった。しかし、自分自身の身体や建築や音楽を観察していると、生命はそのような構造では動いていないことに気づく。

歩くことを考えてみるとよい。私たちは「歩こう」と思う。しかし、右足を何センチ前へ出し、左膝を何度曲げ、足首をどれだけ回転させるかを意識して歩いている人はいない。身体は驚くほど自律的に歩いている。しかし、それでは身体だけが歩いているのかと言えば、それも違う。突然道に穴が開いていれば、意識は瞬時に介入し、身体の動きを変える。身体が意識に従っているわけでもなく、意識が身体を支配しているわけでもない。その二つは絶えず役割を交換しながら、一つの行為を成立させている。

ショパンは十九世紀を生きた人間である。その作品を私は二十一世紀に演奏している。私の身体は六十年以上という時間を生き、ピアノは百年近い時間を経て今ここに存在している。演奏を聴いている人々も、それぞれ異なる人生を歩み、それぞれ異なる記憶を抱えて音楽を受け取る。演奏という一つの出来事の中には、数秒という時間もあれば、百年という時間もあり、百八十年という時間も存在している。それらは一つに統一されることはない。それでも一つの音楽として成立している。ここでも支配ではなく、異なる時間同士の共鳴が起きているのである。

このことを考えていると、私は「ゲシュタルト」という概念そのものを少し考え直したくなる。従来、ゲシュタルトとは「全体は部分の総和以上である」という知覚心理学の概念として理解されてきた。しかし、私が建築や音楽を通して感じているゲシュタルトは、それだけでは説明できない。私にとってゲシュタルトとは、異なる時間を持つ存在が、それぞれの時間を失うことなく共存し、新しい全体性を生み出している状態そのものである。

生命は統一ではない。生命は多様性である。しかし、それは単なる寄せ集めでもない。互いに独立した存在が、互いの独立性を失うことなく応答し続けている状態、それが生命なのではないだろうか。心臓は心臓の時間で動き、呼吸は呼吸の時間で続き、細胞は細胞の速度で生まれ変わり、人間は人生という時間を歩む。それらを一つの時計で管理している存在はいない。それでも身体は一つの生命として存在している。この不思議な秩序は、支配によって成立しているのではなく、相互の応答によって成立しているのである。

私は長年、「Architecture of Life」という言葉を使って建築を考えてきた。しかし今、この言葉の意味は私自身の中で少し変わり始めている。生命を建築へ応用することがArchitecture of Lifeなのではない。生命も建築も音楽も脳も、さらには人間の自我さえも、同じ構造を持っているのである。それらはすべて、異なる時間を生きるシステムが、それぞれの自律性を保ちながら互いに応答し続けることによって成立している。

もしこの考え方が正しいなら、生命とは有機物であることではない。生命とは、異なる時間を生きる存在が、互いを支配することなく、一つの全体を生み出している状態そのものなのである。私はGrožnjanでショパンを弾きながら、その構造を初めて自分自身の身体の中で観察した。そして、その瞬間に見えてきたものは、ピアノ演奏の仕組みではなく、生命そのものが持つ普遍的な秩序だったように思うのである。

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