本は場所をとる。持って歩くと重い。自宅で増殖した本は本棚を埋め尽くし、大学の研究室に侵食し、事務所にも迷惑をかける厄介者である。特に海外出張の時は、本は重量制限オーバーの原因になる。私は強迫症のように本を読む。理解しているかはさておいて、文庫本だと1時間200ページぐらいのペースである。雑読である。だから4冊ぐらいスーツケースを入れてもすぐ読み終わってしまう。そこで最近では電子書籍を活用している。私の場合はKindleという名の青い星空をバックに子供が本を読んでいるあのアプリである。「あんな暗いところで本を読んだら目が悪くなるぞ。」と思うが、多分子供が開いているのも電子書籍で、周辺の明るさは関係ないのだろう。
しかし、なぜか電子書籍で読んだ本は頭に残らないのだ。なぜだろう。マーカーを引いたりタグをつけたりしても同じ。賞味期限が短い。読んでいた時に頭の中で展開していた絵巻が、亡霊のようにふわふわと歪み始め、気がつくと真っ白に中身が消え、段落のタイトルだけが残る。昨晩は「野生のエルザ」という古い本を読んで寝落ちした。本は小学生の頃から持っている。多分100回以上読んでいると思う。日焼けしてページは茶色。ページを曲げると折れずに割れてしまう。紙の本は歳をとるのである。私も気がつくとシワができている。同じである。一方で電子書籍は歳をとらない。歳をとらないということは生き物でない。
先週、学生に設計の指導していたら、最近の学生達が異常に建築の実作に関する知識に乏しいことに気がついた。教員同士で話し合っていたら「紙の雑誌が消え失せたせいではないか?」という結論に至った。大学では全ての学生がネットで新建築を見れる体制が整っている。その気になれば紙の新建築も図書館で見ることができる。ただし貸し出しはできないという難点はある。この体制を作ることで、教員は安心していた。
ところがそれが上手くいっていない。具体的に検索するように指導すると、しっかりリサーチをしてくる。すると、その検索の領域に広がりがない。現実感がない。実態がない。全ての情報が平等に整理されていて、凸凹がない。場所の感覚もない。立川も北京も皆同じ。そうなると、今教わっている教員の作品さえも知らない。そうかと思えばAIが作った作品を現実の建物と同列に参照している。膨大な情報は全てフラットで味も匂いもない。インスタグラムに上がる華やかなイメージが全てである。
以前息子が「zoomの問題は、新しい友達が増えないところだよね。」と言っていたことを思い出した。要は招待された人同士が会うから、思わぬ行きすがりの出会いがないという意味である。本も同じである。紙媒体の雑誌を見ていると、目的の作品ばかりでなく、なんとなく他の情報も入ってくる。それが電子書籍の場合には生じない。検索機能が優秀であるが故に、偶然に出会う作品がないのである。ふと本棚を目をやると、すでにこの世にいないルイス・カーンに出会うこともある。街をそぞろ歩きしていると、時折面白い現象に出くわす。それは建築の名作であることもあるが、大抵は何気ない扉であったり階段であったりすることもある。同じである。偶然の出会い。それが好奇心を呼び新たな世界への扉が開く。
建築学科の中に書棚を作ることを考えている。図書館ではない。図書館にした途端に管理が入る。いつでも手にとれる気楽な本たち。整理はしない。混沌も一興。なくなるかもしれない。管理はできないので。だから雑誌の同じ号が幾つかあっても構わない。汚れたり折れたりすることもあろう。しかしそれは本が役に立ったという示唆である。

