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音の覚書1 JSバッハ

2025/12/11

JSバッハ組曲1番。チェロの重い調べが空気を震わせる。低く高く跳ねる。低音は倍音を伴いながら、バロック特有の角柱を立ち昇り、ドームに木霊する。続いてヴィヴァルディの四季。木立を微風が駆け抜け、土の下に頭をもたげる春の匂いを運ぶ。アンサンブルが一頻り時を支配する。突然ピアノの調べ。ショパンノクターン27番遺作。物悲しい語りが哀愁の琥珀色に時を染める。続いてエオリアンハープが滑り回り、緑の平原が突如広がる。

ここは古都クラコフの聖ペテロ聖パウロ教会。教会で催されるコンサートには魔法がある。如何なるコンサートホールも、教会の調べには敵わない。音響コンサルタントの見解からすれば、響きが長すぎるであろう。残響は3秒を遥かに超えている。しかし音は柔らかいにも関わらず鮮明である。複雑な彫刻や装飾が音を拡散し混ぜ合い、新しい微かな唸りを混じらせる。ドームに溜まった音は微かに遅れて降臨する。

音響とは音の質である。バイナリーコードに過ぎない音という媒体が、人の心をここまで揺り動かす様は魔法に近い。音の力場に関しては大橋力氏の「音と文明」という名著がある。音楽という文明に特化すると、建築という容れ物は常に楽器としても機能し続けてきた。近年ではデジタル技術が発達して、ありとあらゆる音響を電子の力を借りて作り出せるようになった。特にAIが発達してきた現在では、世界中のコンサートホールを作り出せるという。しかしそれでも本物は違うのである。

AIは音楽を作ってくれるが、自分の代わりに演奏してくれる訳ではない。AIは曲を作ってくれるかもしれないが、歌うのは私の声帯ではなくスピーカーである。私が弾くショパンはプロにそれに比べるまでもなく技術が低いが、全て自分のものである。ショパンは一人であるが、弾く人の数だけショパンがあるという。しかも同じショパンの調べは二度と帰って来ない。一度きりの出会いである。

コンサートは無くならない。単に優秀な演奏を再現したいのであれば、立派なヘッドホンを買えば良い。しかしそれはコンサートの代わりにはならない。コンサートにはそこにしかないゲニウスロキ(地霊)があり、カイロスが支配する異次元の時が流れている。コンサートには共に聴く人々がいる。

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