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Cats

2026/3/10

甘い調べ。Catsが安物のカセットテープレコーダーがブリキ缶に木霊すように遠く響いていた。1989年フィラデルフィア。留学は不安を伴うものである。

当時の私は何一つ不自由ない家庭で暮らしていた。いや何一つ不自由なくと言うのは私個人の話であって、両親の人生はそうでなかった。私には兄と妹がいる。歳が離れている。兄は10歳上。妹は7歳下である。その兄が障害を背負っていた。母親から聞かされた朧げな記憶によると、生まれる時の窒息だと言う。胎盤が巻き付いていた。母親はその事を悔いていた。「もしかしたら、転んだことがあったからではないか。」「産院の処置が悪かったからではないか。」両親は兄を正常な子供として育てるべく、駆け回ったようである。普通の小学校の入れようともした。しかし全ての行動は知的障害という症状の証拠集めに過ぎなかった。

つい最近のことである。パーキンソン病で他界した父親の引き出しから古い手紙が出てきた。祖父からの手紙である。「次の子供を作りなさい。残念ながら今の子は正常ではない。」この手紙を受け取った時の父親の顔が浮かぶ。わかっていたこととは言え、必死に育ててきた子供の死刑宣告を受けたような気持ちであったろう。その手紙は60年以上父親の引き出しに隠されていた。そうして私が生まれた。

父親と母親は兄の症状と闘っていた。自らの不自由のもどかしさが成す業であろう。時々爆発する兄。それを力ずくで抑える父親。牛乳瓶を覗いた底に見える景色のように、遠く歪んだ記憶が残っている。ある日兄が居なくなった。施設に引っ越したからである。その日まで父母には二つの生活があった。一つは障害のある息子を必死で立て直そうとする夫婦。それとごく一般的な幸せな家族。両方が相容れずにまるで全く違った二本の映画のように存在していた。全部半分。それが幸いしたのか、災いしたのか。私は自由に育った。あまり期待していなかったのだろう。正常に育つだけで嬉しかったのだと思う。殆ど叱られた覚えがない。怖々と扱われていた。今思えば両親は不安だったのだろう。ある日私が兄のようになるのではないかと。その複雑な事情が今の私を形作っている。Catsはわかりにくい劇である。一つのストーリーではなく、貧しい猫から豊かな猫までが別々のストーリーとして並走する。

今私はニューヨークのワーウィックホテルのロビーにいる。Catsが鳴っている。ふと留学したての時が帰ってきた。私達は今コロンビア大学へ教えにきている。セピア色の想い出。音楽はタイムマシン。1989年の37年前。24才の私はニューヨークに来た。留学先のフィラデルフィアから世界の首都ニューヨークへとアムトラックに乗って。アムトラックというのは、東海岸を走る高速鉄道である。驚くべきことに37年前の車体が、相変わらず走っている。独特の古びた油の匂いをたなびかせて。

コロンビア大学では、当時の私のような若い学生達がスタジオで私を待っている。皆不安と期待を顔一杯に浮かべて。其々の人生がある。美しい時。皆悩んでいる。「どうしたらいいですか。」設計の質問であるが、いつの間にやら人生の話になっている。「『建築は物ではなく出来事である。』(Architecture is not a thing but a event )と先生は言いますね。だけど私にはそれがよくわからない。」「例えば、このスタジオの出来事ををどう表現したらいいんですか?」学生達が無邪気な目を光らせている。そう。この目を私を持っていた。「今日は寒いだろ。だけどこのスタジオは暖かくてコーヒーの匂いがする。古びた蛍光灯が並んでいて明るい。部屋には何だからわからない配管が這い回っていて壁に途中から埋まっている。そういうことだよ。」学生達は私の戯言を真剣に聞いている。徐に学生達が昔話を始めた。ポーランドから引っ越してきた話。お巡りさんが屋根の上でシャワーを浴びていた話。「そう。そういうのが建築なんだよ。君たち自身を見つけなさい。そうすれば自分の建築が見つかるから。」学生達は煙に巻かれている。

私は教えることが好きである。それは多分兄への償いであるように思う。兄は何も与えられていない。お金をもらっても使うことができない。世の中は不公平である。私は恵まれいる。その中でも最高の恵みは、「教える機会を与えられている。」ということ。沢山の人生と出会う。学生と会える時間は限られている。彼らは道行く人々のように通り過ぎてゆく。掴もうとしても水のように指の間から滑り落ちてしまう。今しかない時間。沢山の時間。それはCats。

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