シュニアータŚūnyatā日本では円相と訳されることもあるが、ヒンディでは数字におけるゼロの概念から派生している。円相とは言うまでもなく禅の基本概念である。インドに発しヒマラヤを超え中国にて熟成され日本へと渡来した。その千数百年の渡来を経て哲学として至高の概念として完成された。日本ではその哲学が寺院の奥底に水底の藻の様に煌めきつつも一般人には触れ難い概念に昇華しているように思う。振り返ってこのタワン地方に来てみると、日本において至高の存在であった円相が、まるで通貨のように流通しているように思う。Webで円相を検索すると禅の概念の前に円相場という為替言語が先に出てくるが間違いではない。Śūnyatāは100ルピーという通貨の中に登場する0となんら相違はない。相違はないが空気のように当たり前に存在しているが故に、一般社会に両替する事ができるのである。日本が円という通貨を図らずも使うことになったことは幸運であると思う。そうか。日々我々が使っている100円玉とは円相でありゼロであったのだ。そういえばかつての硬貨には真ん中に穴が空いていた。今は五円玉だけであるが、あの穴には紐を通すという実用性と同時に円相という意味があったのだ。
「ふじようちえん」は円相であるという評価を中国の方々から時々頂いている。頂いているうちいつの間にやら身体の一部になっている。近年ではこの受け売りの概念を自らの哲学のように吹聴している自分がある。
昨日三人の高僧に今設計している孤児院の案を説明する機会があった。中にはボンディラの大僧正様も。「この日本人は禅の概念からこの建築を作ったんだ。」と紹介された。まるで私が禅のマスターであるかのように説明されていて、恥ずかしくて穴に入りたい。本当は経典を一巻も読んでいないのに。これでは経歴詐称である。しかしある程度の真実は誇張されつつも含まれている。