学生達と膨大なスタディーを重ねている。今までにない学校を作る為の生みの苦しみと喜びを味わっている。現在の学校建築の計画は教えることを基本として考えられた。教師が居て子らに教育を施す。正しい概念なのであるが、これが文部省教育課程の学年という概念に嵌め込まれると問題が生じる。子供は多種多様であるからである。学校が勉強したい人だけが集まり教えを乞い、皆が高みを目指すのであればなんら問題はない。そうやって日本は優秀なエリートを育て、いわゆる先進国と自ら言いたくなるような立場にのし上がった。しかしその形式が浸透すると、どうしても階級という概念が炙り出されてくる。人間社会の秩序を考えると不可避な形式なようにも見えるが、その秩序が形式へと変質すると硬直を産む。あたかも勉強が苦手な人間が低い価値の人間であるかのような認識を生み、社会の循環と対流が失われる。結果として社会の力失われる。社会は多様であるからこそ成り立っている。その問題に対する新しい答えをジャムセイ・ガッツァは持っている。
ジャムセイ・ガッツァの教育の基本はshearing である。第一段階として教師が種seedを植え付ける。その種は必ずしも正解である必要はない。大切なことは興味と疑問を産むきっかけを作ることにある。例えば「なぜ空は緑なのか?」と問いかけても構わない。もちろん空は緑ではない。しかし議論のきっかけにはなる。第二段階として消化digestionという過程がある。自らテキストとノートを開いて、知識knowledgeを身につける過程である。これは個人の活動であり、教師はそれを補助する。皆で同じことをする必要はない。第三段階は共有である。この概念が新しい。ゲンラと私の共通言語は英語であるからsharingとなるが、原型はチベット仏教寺院でいうところのdebateであるという。私は僧ではないし修行もしていないので、この先は受け売りとなる。
第三段階。これは私の限られた知識の窓で見渡す限り、この概念は日本の禅宗における禅問答に近いと思う。大切なことは疑問を投げかけ探究することにあり、答えは大切ではないという。第二段階で文字や教えを通して手に入れたのは知識でしかない。それを習得し体得するための最初の一歩が問答であるという。如何に人と意図を共有する事ができるかが大切であるという。ただしそこでは相手を言い負かすのではなく、相手と疑問を投げかけ合い、考えの違いを認識する事が大切である。チベット仏教の禅問答は、2人から始まって、3人、5人。7人。13人と増えて行くのだという。いったいどうやって大人数で禅問答をするのだろう。
人が地声で会話できるのは7メートルまで。お互いが見えると尊重し合うようになる。角がない事が大切。色々と見えてきた。