Message

Back

最も貧しい地域に最も良い建築を

2023/2/15

いわゆる貧困という現象に関わると、しばしば「このような人々に立派な建築は要らない」あるいは「このような人々にそんな美味しい食べ物を与えてはいけない。」という批判にぶつかる。これは巷のネットを賑わすコメント欄の出来事ではない。実際に福祉に関わる現場からも聞こえてくる。この裏には、「今苦境に置かれている人々は、別の人種なのだ。だから我々は助けてあげているのだ。」という上から目線が存在する。

ジャムセイ・ガッツァは孤児院である。孤児という存在は、特にインド社会においては最も危険に晒されている命である。地面スレスレ低空飛行の命である。それを拾うことは善行である。しかしジャムセイ・ガッツァは命を拾うだけの施設ではない。そこで家族となる。家族であればメンバーの誰もが少しでも笑顔になるようにつ努めるのが自然な姿勢である。だから美味しくて栄養のある食事を子供達に出している。最寄の空港から500キロの道のりには多くのレストランがある。日本の基準からしてレストランと見做さない方々もいるであろうが、地域の人々にとっては立派なレストランである。しかしジャムセイ・ガッツァの食事は何処よりも美味しい。良きシェフを雇って、創意工夫を重ねている。

究極の辺境の地にあるジャムセイ・ガッツァの教育は地域の最高峰である。90パーセントの子供が大学に進み、地域トップ10の学生の9をこの孤児院が占める。何もエリートを養成することが偉いと言っている訳ではない。大工さんや農家を養成するワークショップも充実している。大切であることは選択肢である。ここの孤児は努力すれば何にでもなれる。何にでもなれる為には、良い物を知っている必要がある。良い教育を知らなければ良い教育者になれないし、美味しい食事を知らなければ良い料理人にはなれない。生かされているだけでは足りないのである。

良き生活には建築も大切である。建築は生活の基本である。「あばら屋から育った立派な人物。 」という伝記が巷では美談として扱われる。なるほどあばら屋で育ち困難を克服して成功した人々は偉い。しかしこの美談を裏返して、「貧しい地域には貧しい建築を与えればよい」と考えるのは間違いである。増してや仮設でよいと考えるのは間違いである。「寒くなく暑くもないことが大切。あとは何も要らない。」と苦労している本人が言うことは間違っていない。しかし同じ事を傍観者が言うと間違ったメッセージとなる。

これをわかりやすくする為に食の話に転化する。昨年、少しでも子供に栄養をつけさせようと、カップラーメンを牛乳で戻している食生活に疑問を呈する記事があった。この記事が炎上した。元来この記事は、「素材を大切にする食文化が失われていないか?」というメッセージであった。ところが「貧しい家庭が苦労して子供に栄養をつけさせようとしているのに、それを批判するとは何事か?」という批判が殺到した。元々の記事には「貧しい家庭」という言葉は全くなかったのに、「貧しい」という言葉と「カップラーメン」という言葉が結びつけられたのである。ここで私は「カップラーメンが食文化の敵か?」という議論をするつもりはない。私だって突然夜中にカップラーメンが恋しくなることがあるから、引き出しにいくつか忍ばせている。問題は「貧しい」のであるから「カップラーメン」を食べればよいという意識である。好きで食べるのは良いが、貧しいが故にカップラーメンを子供に毎日食べさせなければいけないような社会が間違っているのである。この世に生まれた人は皆、健康的で美味いもの食う権利がある。同様にこの世に生まれた人は皆、文化がある建築に健康に住む権利がある。良き建築は良き教育を育む。この最も貧しいも地域に最も豊かな建築を作りたい。良き建築で教育を受けた子供達は、育った時に良き街を作ろうと思うであろう。美味しい物を与えられた子供達が育てば、その子等に美味しい物を与えたいと思うであろう。そこには次の世代へと伝えられる愛情が生まれる。ここに貧困の連鎖を断つ鍵ある。良き教育と良き食と良き建築。これを与えられた子等はその社会を愛する筈である。

Facebookでシェア
Twitterでシェア