「ついにやることにしました。」奥田 知志牧師より電話があった。その一言で私は何のことかわかった。奥田牧師が長年温めていた救護施設のことである。奥田牧師は我々が設計した東八幡キリスト教会の牧師さんである。仕事がら実に多くの牧師さんにお会いしたが、奥田牧師さんのようなタイプは会った事がない。いつも顔面いっぱいに「次何のイタズラをしてやろうか?」という企みの笑みを浮かべている。単細胞と言われる私が言うのも烏滸がましいが、極めてわかりやすい人である。悲しい時は小さい目いっぱいに涙を溜め、嬉しい時は口の端が顔の画角いっぱいに広がる。その牧師の悲願の施設である。
ここで奥田牧師について少し字数を割かねばならない。このプロジェクトはこの人なしにありえないからである。奥田知志氏は牧師家庭どころかキリスト教徒の家庭にも生まれていない。しかもそ御祖父は神主であったという。中学二年生の時にキリスト教と出会い洗礼を受けた。運命の導くままに関西学院大学神学部に進み、釜ヶ崎の日雇い労働者の支援活動に出会ったという。奥田牧師に関してご興味がある方は、自著他著ともに沢山の参考図書があるのでご参照願いたい。
下関駅の放火事件を起こした人が新品の教会に仮住まいすることになった。◯さんは放火や万引きを繰り返して、人生の大半を刑務所で過ごしてきた。放火や万引きをを繰り返してきた理由は刑務所に帰りたかったからである。逆に言えば刑務所以外に生きる場所が見つからなかったのである。軽度の知的障害がある。下関駅の放火の数日前に刑務所を出所している。出所すると彼は幾許か刑務所で得た賞与を持っていた。それを彼は瞬く間にパチンコで使い果たし、街を放浪する。駅には行くが乗るお金もない。万引きを繰り返し放浪するうちに、ついに火をつけた。何も計画性があるわけではない。これが初めての放火ではない。彼にとっては「たすけて」という代わりの精一杯の狼煙であったのかもしれない。それが今回はボヤで終わらず、街のシンボルであった大切な下関駅という宝を全勝させてしまった。奇跡的に死傷者なしであった。現行犯逮捕となった。ただし求刑18年にが大幅に10年に減刑される。知的障害の認定と、その彼に行政が何の対応もしてこなかった状況を汲んでの判決である。この◯さんと奥田牧師は対話を続けていた。そして出所した◯さんを奥田牧師は引き取ることにした。場所は我々が精根込めて作ったばかりの東八幡キリスト教会である。「火をつけるなよ〜」「火をつけるなよ〜」と奥田牧師は言い聞かせ続けたという。「ここ出てまた1人になったら◯さんどうする?」というと「火いつけるなー。」「そらあかんあかん」そうこうするうちに◯さんは「もう火はつけん。」と言うようになった。教会は木造である。火をつければよく燃える。自分の物ではないとはいえ、奥田牧師自慢の教会である。普通に考えれば放火犯を泊める場所ではない。
奥田牧師の語り口は軽くユーモアに溢れている。天性と言って良いと思う。あっという間に聴衆の心を掴んでしまう。その多くが悲喜交々の実話である。牧師という職業柄語りは本職である。しかし今まで数々の牧師先生にお会いしたが、他に例を見ない。奥田牧師の人となりを伝えるために、幾度となく奥田牧師の楽しげな話を説明しようとしたことがある。これがうまく行かない。喜劇が悲劇になってしまい、笑い事にはならない。私は明らかな部外者であるからである。
奥田牧師は語る。「「大丈夫ですか」「頑張って」「寒いでしょう」と声をかける。決して適当に言っているわけではない。本気で心配している、つもりだ。しかし、そんな僕が、その数時間後、自宅に戻り、あたたかい部屋で過ごし、ベットに潜り込む。・・・・そこには「アガペー(自己犠牲の愛)」などひと欠片もない。」という。奥田牧師がこの問題に取り組んだ1988当時、北九州市はホームレスに対する対策を持たなかった。2001年初めて自立のための支援住宅を5室作った時、市内のホームレス数は300人を超えていた。2023年現在市内でホームレスは殆ど見掛けない。今でも残っているホームレスは、奥田牧師がリードする抱僕が一人一人ケアしている。そこまで実績を挙げた奥田牧師の前でさえ、自己犠牲ではないという。そうなると我々建築家は何なのかという問題に突き当たる。
我々は人道支援的な仕事に関わることが多い。しかし結局のところ建築家はボランティアにはなり得ないのである。奥田牧師がホームレスそのものに成り変わることができない以上に、我々は奥田牧師のような伴奏者にはなり得ない。建築という仕事には大きな資金が必要である。その大きな資金を動かすためにはしっかりとした設計図が必要である。その為には人件費を払わねばならない。時折、「人道支援するのであればなぜタダで仕事をしないのか?」と批判されることもある。できないのである。我々は所詮道具でしかない。資金は別のところから来る。しかし世の中の役にたつ道具であることはできる。