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わたしがいるあなたがいるなんとかなる。

2023/7/18

社会活動としての建築に携わっていると、時折「ボランティアですか?」と問われることがある。その裏には「社会の為を考えるのであれば、身を削って無料で奉仕するべきであろう。」「設計料を受け取るのであれば、所詮金儲けに過ぎない。」という見方がある。そう言われると反論のしようもない。もし私に20億円ぐらい個人資産があれば、自ら福祉事業を起こすことができる。しかし実情は所員の給料を支払い外注費と経費を支払うと利益は殆ど残らない。小さなプロジェクトに取り組むと赤字になる。

ボランティアには限界がある。世の中には無数の善意のボランティアがある。決して批判するわけではない。大切な行為である。善意なしに社会は改善しない。娘が通っていた田園調布雙葉には貧しい山谷地区に「スプーン一杯の米」を届けるという活動があった。活動は戦後始まり、現在も続いている。その学校で育った娘は、誰にも優しい心を持つ人間に育った。素晴らしい教育を授けて頂いた。その一方で我々の場合はそれでは立ち行かないという事情がある。どんなに自己犠牲に取り組み愛と共感を温めようと、目の前の事業が大き過ぎて自分では解決しようがないからである。慈愛の心を生徒に育て、人格を持った人間に育てあげようとする学校の活動と、本業として取り組む我々は全く違う。ボランティアではないとの謗りは免れようがないが、取り組む課題の大きさがボランティアという範疇を遥かに超えているのである。喜劇ドン・キホーテなのかゴリアテを倒したダビデに足りうるのか。無謀なことが多い。我々の活動は「食を貧しい方々に時折届ける」ことではなく、「特定の人々が貧しいと言われず幸せに暮らせる社会を作り上げる」ことである。その為には補助金を集めねばならない。寄付金も集めねばならない。日本財団やユニセフの補助が要る。個人であれば、サッカー日本代表の長谷部選手のように、印税を全て寄付しさらに足りない部分を負担してくださる人もいる。海外であればアガカーン財団がある。広報に取り組まねばならない。現在取り組むインドの孤児院ジャムセイ・ガッツァの為にTEDトークを組んだ。

その為には具体的なイメージが必要である。そのイメージとは建築である。イメージであろうと、しっかりした内容にする為には百万円程度の経費がかかる。その程度であればなんとか自己犠牲の精神で動けるが、事が具体的になるとそうは行かない。専属の所員が必要になる。図面や模型を作らねばならない。現地調査の経費もかかる。そして何よりも私自身のモチベーションも大切である。手弁当ではどこかで息切れして、片手間の仕事になってしまう。

「希望のまち」では、しっかり設計契約を行なっている。インドの孤児院にせよ、ささやかではあるが、経費は頂くことにしている。ここまでくるとボランティアとは言えない。プロの仕事である。事業である。そうでなくては現実は動かない。事がボランティアで取り組むには大きすぎるのである。奥田牧師の走らせる抱僕は100人程度の人員を抱えている。この100人にボランティアを強いていては事が動かない。ボランティアのサポートは必要であるが、ボランティアだけしていて生きられる資産を持つ人達は少ない。

「希望のまち」プロジェクトには「わたくしがいる あなたがいる なんとかなる」というキャッチコピーがある。わたくしはその先があると思っている。「希望のまち」には大きく明るい風呂を設る予定である。銭湯のような立派な風呂である。ホームレスになっていた人たちを洗って清潔に保つ目的であれば、そんなものは要らない。白いタイル貼りの綺麗な部屋があればいい。奥田牧師はその風呂に銭湯画家に依頼して北九州の山を壁一面に描きたいという。単なる清潔にする道具だけでは十分でないのだという。「そうここから空が見えてね。」「浴槽のここに座ってると絵が見えてね。」と奥田牧師は語り始める。気がついた。奥田牧師は自分も風呂に入りたいのである。「わたくしがいる あなたがいる なんとかなる」「だからオレも入れろ」ということである。かつてのロンヤス会談ではないが、風呂の裸の付き合いは強力である。人が同じ目線になる。ボランティアには与える側と与えられる側がある。希望のまちの風呂はそれがない。「みんなおんなじいのち」なのである。

「希望のまち」の一階には、新潟県三条の「えんがわ」以来お付き合いのある、ミシュランシェフの伊藤 一城氏に協力をお願いすることにした。一階にどこよりも美味しいレストランを開いてもらう。そのシェフに救護所の料理をアレンジしてもらう。料理はより高価な素材を使えばより美味いわけではない。素材は新鮮で健康であれば良い。味はシェフの腕次第である。どこの救護所より美味い食事を提供したい。ホームレスの人は食事をエサと呼ぶ。せっかく救護所まで到達したのであれば、エサではなく料理を出したい。それも格別に美味いものを。最近カップラーメンの牛乳がけを子供の提供する習慣を批判するウェブ記事が炎上した。「母子家庭は料理など作っている暇はないのだ。どこがいけないのだ。」という批判である。一見するとこの批判は正しいように思う。しかし誤解がある。もとの記事は一言も母子家庭のことなど触れていないのだ。子供の健康と食文化について警鐘をならしただけなのである。問題は貧しいからカップラーメンで十分という認識である。私だって夜中にしきりにカップラーメンが恋しくなって、ゴソゴソと床を立ちキッチンに向い湯を沸かし始めることがある。ただしそれは食べたいから食べるのであって、しょうがなく食べるのではない。問題はカップラーメンを毎日子供に提供しなければいけない社会が問題なのである。母子家庭だからこそ朝ゆっくり子供と食事をして、健康に幸せに暮らせる社会であるべきなのである。奥田牧師にシェフを入れたいという話をすると。「いいねえ」という。奥田牧師は食通である。決して高級ではないが、わたくしと色々と店を巡った。美味い酒はわかる。結局そのレストランの食事を一番楽しみにしているのは奥田牧師である。「オレもいれろ」である。ここに奥田牧師の伴走型支援の真骨頂がある。奥田牧師も含めて「みんなおんなじいのち」なのである。私もそこに入りたい。

https://spicecafe.jp

伊藤一城の店

奥田 知志

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