佐藤可士和氏は我々が入る前からふじようちえんに関わっていた。佐藤可士和氏と我々が出会ったのは、Dsガレージという菊川怜氏の番組の楽屋であった。その可士和氏のところに電話をして園長に紹介したのはジャクエツの平野氏である。これから建物を作ろうと思っているのに、グラフィックデザイナーとして名の売れていた佐藤可士和氏に連絡する平野氏も不思議である。その可士和氏と園長先生は一年ほど議論を重ねた。今やブランディングアートディレクターとして押しも押される佐藤可士和氏であるが、当時はそういう分野さえも確立されていなかったと思う。その可士和氏より一本の電話が入った。私は岡谷県牛窓の港でフェリーを降りたところであった。その誘いに「やります。」と返事をしたのが始まりである。あの瞬間が無ければ、あの園舎は生まれなかったし、今の「ふじようちえん」という潮流もなかった。業界では「ふじようちえん前」と「ふじようちえん後」という時代の分け方をするのだという。今や世界でふじようちえんを知らない教育研究者はほとんどいない。
可士和氏の役割は空気を作ることである。間を取り持って関係を保つという意味ではない。施主も含めチーム全体が集まるプラットフォームをつくるということである。映画で言えばアクティブなプロデューサーとエクゼクティブディレクターを合わせたようなものであろうか。SFを作るのかドキュメンタリーを作るのか大筋を決める。しかしシナリオライターでも映画監督でもないからメガホンをとるわけではない。我々が入る前から「遊具のような幼稚園」というコンセプトは決まっていた。我々が入る前に我々の作品「屋根の家」を佐藤可士和氏はプレゼンテーションしていた。よって「子供を屋上にあげる」ことと、「遊具のような」というコンセプトは我々以前に決まっていた。映画で言えば、「AIの支配する未来」というテーマを作るような作業である。我々はそれを受けてマトリックスを作るウォシェスキー兄弟のような監督である。佐藤可士和氏はマメな性格である。だから設計期間中は毎月会議に出てくる。そこで「これはいいですね。」「いい考えですね。」と言ってくれる。佐藤可士和氏は煽てるのが上手い。単細胞な我々は煽られてドンドン木に登ってしまう。忘れたのかもしれないが、「これは困る」とか「よくないからこう変えよう」とか無茶を言われた覚えがない。以前友人の千葉学氏が「盲導犬センターの先生達は、犬を褒めて仕事をさせるのが上手い。だから我々も褒められているうちに仕事をさせられてしまった。」と言っていたが、佐藤可士和氏の仕事ぶりもそうである。佐藤可士和氏は盲導犬の調教師に向いているに違いない。載せられたのは私達だけではない。園長先生もである。そのせいか、討論という物々しいぶつかり合いは存在しなかった。佐藤可士和氏は柔軟である。その柔軟さを表す出来事の一つを紹介する。入り口の門に園名を入れることになった。佐藤可士和氏はいろいろな大きさのフォントを用意した。色々と現地で掲げてみてどれが良いか決める為である。「ふじようちえん」とフェンスに色々な大きさのフォントを並べて様子を見た。「これでいいんじゃないですか?」まだ作業途中で大きさの違う字が出鱈目に踊っている。普通のグラフィックデザイナーであれば、怒りそうであるが、「そうですね。いいかも。」と佐藤可士和氏は笑いを浮かべている。私は今まで18年の付き合いで、彼が怒っているところを見たことがない。園長先生もキツネに鼻を摘まれたような顔で「まあいっか。」という。それがそのままデザインとして居着いてしまった。全てがそのような具合で、川下りのようにスルスルとものが決まってしまった。
そう言えばもう一つ佐藤可士和氏が大きな役割を果たした決定がある。壁のない園舎である。ふじようちえんはモンテソーリ教育を軸としている。それをふじようちえんが発展させて、ふじようちえんメソッドと勝手言われるのはずっと後の話。今でも基本はモンテソーリである。その中に年の違う子供達を混ぜて合同保育をする手法がある。そこには社会性を育てたり倫理観を育てたりさまざまな目的がある。従来型のきっちり遮音壁で隔てられた保育室の形式では、二つのクラスを合わせると二倍の人口密度になってしまう。元々部屋をつなげたいという話をしていたのは園長先生であるが、音がうるさいのではないかという心配もしていた。建築家にとっては壁のない保育空間のアイデアは魅力的である。新しい教育が生まれる可能性がある。それを「せっかくだからやってみましょう。」と背中を押したのは佐藤可士和氏である。しばしば建築家の提案はデザイナーの依怗と捉えられることがある。そこをいつのまにか上手くおさめてしまった。私は彼以上に説得力のある人材を知らない。