父が建築をやれと勧めたことは一度もない。それどころかほのめかされたこともない。しかし今思い返すと、父親なりに静かなアピールをし続けていたように思うのである。建築家として海外で働くことまで一時夢見ていた父親にとって、自分の夢を息子に重ねていたことは間違いない。
一つは家の中には膨大な建築雑誌があった。特に鹿島出版会の発行する『SD』に関しては、父親自身が立ち上げに関わっていたこともあって、創刊号から揃っていた。その中にアイヴァン+ピーター・シュマイエフの特集号があった。今振り返れば人生を変えた一冊である。その中にレイクサイドに大きなデッキが突き出た家がある。ともかく美しくて、寝ても覚めてもその号を見ていた。
もう1冊ある。『毎日グラフ』の「昭和新宮殿」という特集号である。以前のコラムで書いたように昭和新宮殿は父親が設計JV側のチーフを務めたプロジェクトである。どういうわけかそれが私の目につくところにいつも置かれていた。
父親の机の上には木でできた住宅模型があった。鹿島建設が住宅を請け負うことはないから、もしかすると内職であったのかもしれない。その模型を貰った私は、その上でミニカーを走らせて遊んでいた。あの模型はどこへ行ってしまったのだろう。
父親は水彩画をよく描いていた。子供の頃絵で佐賀県の賞も取ったことがあると言っていた。大車輪が得意な体操選手であった祖父とは対照的に、静かに物思いに耽る少年だったようである。父親は特に病気をするでもなく健康であったが、私の記憶を辿る限り運動らしい運動をしていた覚えがない。活動的であった伴侶、私の母親とは対照的である。
母親はアイゼンやピッケルを引っさげ、冬の八甲田山やモンブランを巡りつつ山岳写真を撮り、モンベル賞まで受けた猛者である。鹿島建設を退職して意気消沈している父親を見かねた母親は、ある日山に父親を連れ出した。ところがその初日に骨折。母親に抱えられて帰ってきた。男の面目丸つぶれである。しかしそれを補うだけの知的オーラが父親にはあった。
父親の両親も絵を描いていた。祖父は水墨画、祖母は日本画を教えていたと父親は言っていた。その中で祖父の描いた皿絵が残っている。詳細は定かではないが、父親が絵心のある両親のもとで育ったことは間違いない。
小学校三年生の頃だと思うが、田園風景を高台から描いた風景画を父親から見せられた。鉛筆画の上に淡い色を軽く載せた品の良い一品であった。手前に前景として松がある。それに魅せられた私は田園風景を描きはじめた。自宅は東京都新宿区にあったから、周辺に田園風景などない。だからいろいろと間違っていた。田園風景なのに格子状のあぜ道に全て電線が張り巡らされていた。「田園風景にこんなに電柱はないよ」と指摘されたことを覚えている。今でも私が水彩画を沢山描くのは、明らかにその時期の教育の影響である。
鹿島建設を退職してから父親はまた熱心に絵を描き始めた。父親らしい実直な絵である。鉛筆デッサンの上に色を載せる子供の頃の私が見ていた変わらぬ手法である。
父親は80歳を越える頃からパーキンソン病を患い、ケアの必要な施設に入らざるを得なくなった。目黒通りを挟んで私の経営する手塚建築研究所が見えるところにその部屋はあった。壁に最期の時までその絵は掲げられていた。
2001年9月11日にワールドトレードセンターのテロがあった。その時ロイター通信に努めていたペンシルバニア大学の同窓生から私に電話があった。あのビルはなぜ倒壊したのかわかるか?というのである。私の専門は構造ではない。しかしその時私はその構造を的確に説明することができた。なぜなら父親からその構造を教わっていたからである。「アメリカにはミノル・ヤマサキという日本人建築家がいて、ニューヨークという大都市に素晴らしい超高層を作ったのだ。建物はチューブ構造で、その柱が下の方に行くと三本が一本にまとまっていて……」と説明された。確か小学校三年生の頃であったように思う。その教材となったミノル・ヤマサキの作品集は今でも手塚建築研究所の本棚に納まっている。
アメリカに留学した時もすぐにワールドトレードセンターを見に行った。父親に教わった通り、三本の柱が下の方ではまとまって一本になっていた。その広場に立った時、アメリカ大都市特有の閑散とした誇大主義を感じつつも、「これぞ世界だ」という感慨に浸った瞬間を覚えている。
手塚義男の孫にあたる私の娘と息子は伊東建築塾に通うことを選んだ。伊東豊雄氏が開いた12歳以下限定のワークショップである。私が勧めたわけではないが子供は親の背中を見て育つ。まだ二人は高校生と中学生。建築を選ぶかどうかはわからない。お世辞にも実入りのよい仕事とは言えない。しかしこれだけは言える。人生の足跡を世の中に残すには良い仕事だと。
(2019年 KENCHIKU No.19)