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鹿島建設への道

2023/8/4

私の父親である手塚義男は、ひたすら実直に退職するまで勤め上げた鹿島建設の社員である。その息子として私は育った。その鹿島建設の社員の方々に親戚一族のように可愛がられた。かつて鹿島建設設計部が西新宿の三井ビルにあったことがある。まだ小学校低学年であった私に、父親はいかにそのビルが秀でた存在であるか事細かに説明した。その詳細は残念ながら党えていない。その三井ビルの角に父親の部屋はあった。次長という待遇であったように思う。他の人とは違い自室があり応接セットを構えた父親を見て誇りに思った。今思えば大した部屋ではないのかもしれないが、小さな私にとっては父親の権威を上げるには充分であった。フロアの人が皆挨拶をする。いくつもの瞳が優しく目線を送ってくる。一層下に下ると模型のコーナーがあった。確か宮原さんという方だったと思う。模型室を案内してくれた。その宮原さんより後日孔雀を模した精巧な凧を貰った。多分東南アジアのお土産ではなかったかと思う。緑色の顔料が簿い油紙に細かく載せられていた。父親と近くの哲学堂公園にその凧を揚げに行った。とてもよく揚がる凧で、空に小さくなるまで糸を引き伸ばした。私は糸が切れて飛んでいってしまうのではないか心配で、泣きながら父親にもうやめてくれと頼んだ覚えがある。

父親にとって鹿島建設は家であった。家の壁にはいつも鹿島建設の堅苦しいながらもモダンで社風をよく表したカレンダーが掲げられていた。ちなみに鹿島のカレンダーは父親が存命する間ずっと届けられ続けていて、父親が最期の時を迎えた施設の個室にも掲げられていた。

武蔵工業大学を卒業する時、父親から鹿島建設に入らないかと誘われた。父親としては居心地の良い鹿島建設に是非息子も入れて良い人生を送らせたいと思ったのであろう。その話を私は断った。留学を考えていたからである。すでにMIT、プリンストンそれからペンシバニア大学の合格通知が届いていた。父親は大反対であった。まさか断るとは思っていなかったのだろう。「留学をそそのかしたのは誰だ」と私を問い詰めた。私は、「新居千秋先生である」と白状した。いきなり渋谷に連れていかれた。原広司先生設計の白いホテルの一階である。そこに新居千秋さんが待たれていた。というより呼び出されたという方が近い。極めて上から目線である。相談は深夜に及んだ。新居千秋さんも忙しい。業務時間中に迷惑な話である。父親は新居千秋先生を説得にかかった。ここで間違えると息子が鹿島建設社員という立派な社会的地位を逃し、明日をもしれぬヤクザな建築家に落ちぶれると思ったのかもしれない。必死であった。結果として軍配は新居千秋先生に上がった。相手は話すことにかけては日本一の新居千秋さん。当然である。「いくら成績一番とはいえ所詮武蔵工業大学である。入ってもせいぜい課長止まりの可能性が高い。それなら海外の大学を出てから入ったほうがいい」という理屈である。「鹿島建設の課長さんなら随分良いステータスではないか?」という議論はさておき、役員一歩手前で出世が止まった父親にとっては理解しやすいストーリーであった。「それならば」父親は納得した。新居さんとしては上手く言いくるめたつもりなのであろうが、これが後で尾を引くことになる。

ペンシバニア大学大学院を出た私は、日本に帰らずロンドンにあるリチャード・ロジャースの事務所に就職した。この時は新居さんの方便を使い、経験を積んでから就職した方がいいからと説明をした。よって父親はリチャード・ロジャース事務所を就職先とは考えていなかった。ロンドンにいる私と電話する度に、「お前はいつ就職するんだ?」と問い続けていた。「そうだなー」と開き流し続けていた。その頃の私はイギリスヘの定住資格を視野に入れていたのである。リチャード・ロジャース事務所は実に居心地が良かった。私は意外な程に組織に向いている人間なのである。

1993年末のクリスマス休みに転機が訪れた。リチャード・ロジャース・パートナーシップに就職して4年になろうとしている頃である。実家と何気ない所用で電話をすると父親がとんでもない話をする。「あーそういえばお前の叔父さんから病院の設計を頼みたいという電話があった」「だけどお前はまだ無理だから鹿島建設に頼んでおいたよ」というのである。冗談ではない。若手にとっては千載一遇のチャンスではないか。経験のない若手に仕事を出してくれるのは親戚縁者だけである。意を決した私はすぐさま東京へと飛んだ。

帰ると父親は「なぜ帰ってきた」と言う。「自分の家なのだから当然のことだろう」。「それより俺の仕事をなんで勝手に鹿島建設に振った!」すると父親は「お前にはまだ無理だ」「まだ就職もしていない」という。なんと父親はリチャード・ロジャース事務所を就職先とは看做していなかったのである。私が1600億円のプロジェクトを動かしている事も知らない。父親にとって私は、成田空港から5年前に旅立った小僧のままなのである。それでも私は食い下がった。すると「明日の朝までプレゼンが出来れば、叔父さんのところに連れていってやる」。全く息子の力量を評価していない。青二才扱いである。まあ実際そうなのだが…。翌日私はプレゼを揃えた。「できるじゃないか」と父親。怒りを押し殺して「じゃあ連れて行ってくれ」と頼む。

その後紆余曲折はあったがプレゼンテーションは非常にうまく行き、結局契約することになった。帰国はきっかけとなった電話から6ヶ月後のことになる。我々の処女作となった副島病院である。しかし事はそう単純ではなかった。帰国した私を待っていたのは、鹿島建設九州支店の一角であった。1200の高さのパーティションの裏に小綺麗な机が夫婦二人分並んでいる。父親の差し金である。なんと父親は相変わらず私を鹿島建設に入れたいと思っていたのだ。父親にとって鹿島建設は単なる職場ではなく人生なのだ。鹿島建設が大好き。独立する人間が理解できないのだ。そこから抜け出すのに半年を要した。しかし今思えば、随分ご迷惑を鹿島建設九州支店の方々にお掛けしたものである。何も知らないのに頑固一徹。資格もない。我儘。よく受け入れて頂いたと思う。私が逆の立場であれば張り倒していたかもしれない。足を向けて寝れない方々が何人かできた。

(2019年 KENCHIKU No.18)

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