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父親

2023/8/4

上海に父親が生まれ育った家を訪ねた。とはいえ父親は残留孤児でも中国国籍でもない。日本人租界での出来事である。手塚家は貿易商であった。故に商業都市に支店を構えるのは自然な成り行きであると言いたいところであるが、事態はもう少し複雑である。原因は祖父にある。佐賀銀行という大きな家業を継ぐとなると、当然のことながら結婚相手も家も大事である。将来の家業の発展に寄与すべく然るべき家と家の繋がりが求められる。

ところが20歳そこそこの手塚文蔵は自分で若干16歳の結婚相手を見つけて来てしまった。私の祖母もそれなり大店の娘であったので、それなりの騒動であったようである。居心地が悪かったのか、或いは修行をしたかったのか、二人は海外に飛び出してしまった。その為父親は上海生まれとなり、9歳まで彼の地で育った。父親としてはとても楽しい時期であったようである。父親には3歳上の兄がいて、いつもついて回っていたようである。伯父は他界するまで常に良い兄貴分であった。時折戯れに父親が住んでいた家の住所を私に聞かせてくれたことがある。中国語であったようだが、その真偽のほどは私にはわからない。

商業都市上海にも歴史的街区保存地区がある。父親が育った家も小学校もその一角にあった。上海語というものがある。マンダリン或いは北京語と呼ばれる、標準語とは違う言語で互いに会話はできず筆談となる。

2013年の4月上海にて講演会を行った。その数十年前のことであるが、父親の兄妹が揃って、家を見に行ったという話を聞いたことがあった。その微かな記憶を頼りに従兄弟に問い合わせると、今でも家はあるという。私の講演時の通訳の女性にその家に連れて行ってくれないかと頼み込んだ。それらしき歴史の色合いを帯びた小道を一つ一つ巡る内、東照里という字が掲げられた門が見つかった。その門の奥に続く小道に面して目指す家は建っていた筈である。租界なので伝統建築ではなく西洋風で格式がある。

いきなり門を叩く訳にもいかず、通りかかったお年寄りに声をかけ事情を話した。すると「付いといで」と一言。麻雀荘に連れていかれた。さすが本場中国。20人程のお年寄りが大きな部屋一杯に麻雀に勤しんでいる。「この日本人はお父さんが育った家を探しに来たらしい」「みんな協力して」「OK」手際がいい。どうもこの地域のリーダーらしい。「じゃあ家の番号は?」「19番です……」と、部屋中に笑いが広がる。

なんと声をおかけしたのはその本人であった。お元気であるが、なんと90過ぎであるという。健脚である。その足で家に案内された。すると見せたいものがあるという。引き出しから出てきたのは、なんと75年前の家族写真。まだ小学生の父親が白黒写真におさまっていた。戦乱や文化大革命を超え、その写真は生き残っていたのだ。伯父は常に連絡を取り続けていたらしい。

父親の話はこれで終わりである。このコラムに過去登場した方々のような華々しい経歴を私の父親は持ち合わせていない。4回の執筆はかなり苦しい。そういえば、他界した父親の業績がもう一つある。私の設計した勝林寺の納骨堂入居の第一号となった。納骨棠は終の住処である。マザーズハウスならぬファーザーズハウス。良き親孝行ができた。

(2019年 KENCHIKU No.20)

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