建築論の本を書いて欲しいという依頼を頂いた。ありがたいお話しである。
私は建築論を読み物として語りたい。一つには私自身が遠い昔の一時期、物書きになりたかったという野望もあるし、もう一つには建築論という分野の難解性に対する拒否反応がある。建築論の難解性は漢文のそれに似ている。中国人は日本の漢文を読めない。なぜなら漢文は日本人という島国の民が独自に作り上げた大陸文化の理解であるからである。日本人は大陸の文化に対して少々思春期の若者が抱く複雑な反抗心と愛情が入り混じった奇形的な感情を持ち合わせている。その複雑さが生み出した漢文は、日本独特の学派を産み、その内容を理解する知能を持ってして知識人の習わしとするような風潮がうまれた。それは、かつてのギリシャ文明がリラを弾ける技術を持ってして自由人の習わしとみなし、それをリベラルアーツとして醸成して行った過程に似ている。しかしその日本の階級意識は決して太平洋はおろか日本海を越えることすらない。いわば島国の方言である。二十歳ごろの私の頭の構造では日本の建築論は理解し難く、常に漢文に対する畏敬と拒否反応に似た感情を抱いてきた。この感情が27年間の教授生活を経るうちにいつの間にやら趣向へと醸成され、気がつくと自らが漢文同好会の一員となっていることに気がついた。恐ろしいことである。ミイラ取りがミイラになってしまった。大学を卒業してペンシルバニア大学大学院に留学した時、若い私は日本の建築論が漢文であることに気がついた。日本語訳では極めて難解であった建築論が、英語ではごく当たり前の内容を平易な言葉で書かれていた。その頃の実直な感情に立ち戻りたい。そういう想いがある。今書いている本は建築マニアの同好会誌ではなく、一般の人々も愉しめる読み物であって欲しい。故に、これから書く本は建築論としては贅肉にあたる「耽溺」という無駄を大いに含んでいる。しかし霜降りの肉が必ずしも優れた蛋白源でなかろうと、大多数の日本人にとっては赤身よりも美味いのである。